心の薔薇
(文3000字 写真60枚)2022年5月投稿
北九州市立響灘緑地グリーンパークで、「春のバラフェア」が開催されている。320種2,500株という数は、全国の有名なバラ園と比べると少ない方だろう。しかしこのバラ園を管理するスタッフの方々の気合いは凄い。朝9時の開園時には園内の手入れがすべて終わり準備万端。次から次へと目の前に現れる個性豊かな美しい薔薇に見惚れて、時間があっという間に過ぎてゆく。
昔東京郊外に住んでいた時、熱心に薔薇を栽培する家が近所にあった。個人宅としてはかなり広めの数十坪ほどの庭全面に、薔薇だけが植えられていた。
5月の夕暮れ時、家の前を通りかかると、庭を埋め尽くす薔薇が咲いていた。あまりの見事さに立ち止まって見惚れていると、ちょうど手入れの最中だった奥さんが出てきて、初対面だったにもかかわらず「どうぞ中にお入りください。」と言って庭に招き入れてくれた。
一歩庭の中に足を踏み入れると外の喧騒はすっかり打ち消され、静寂に満ちていた。迷路のような細い小道の両脇に、人の背丈を超える大きさにまで成長した様々な品種が密集して立ち並び、大きな花が咲き誇って今にも上から降ってきそうな位だった。薄暗くなりかけた木陰で夕焼け空の光を集めた花びらが妖艶に浮かび上がり、濃厚な香りは咽るほどに辺り一面に充満していた。日常から切り離された魔法の世界に迷い込んだかのように、しばし時を忘れ、至福に酔い痴れた。
若い頃の想い出にはまた別の薔薇にまつわることがある。延べ2年間ほど通ったインドの探求施設「アシュラム」でのこと。薔薇の花は様々なイベントに欠かせない重要なアイテムだった。
その施設ではインド人の神秘家Osho(オショー 1931~1990)のガイダンスに基づいた様々な瞑想やヒーリング、セラピー、アートなどの人間探求のワークが行われていた。それは宗教的な修行ではなく、純粋に人間探求のものであり、当時世界60か国以上から千人を超える人々が集まっていた。
この探求に入ってゆく者には、希望者にサニヤスネームという弟子入りのような意味のニックネームが授けられた。Oshoはその人の過去生すべてを透視し、その魂の個性や質に相応しい、成長の助けになる名を付けたと言われている。
このネームが書かれた紙を授与するセレモニーが月に一度大きなドーム型の瞑想ホールで開かれた。弟子入りした者には守らなければならない戒律や義務は何もなかった。ここに滞在する間は弟子入りしようがしまいが関係なく、皆自由にワークに参加することができた。
そしてこのセレモニーの時に一輪の薔薇の花が添えられた。与えられるのはただそれだけだ。この薔薇は自分自身の真実を探求しようと決意した人間にとって象徴的で美しいギフトとなった。人間存在という神秘と薔薇の花という儚くも美しい自然界の神秘が出会う。未知なる可能性を秘めた自分自身の内奥の神秘を探求しようとする者に、薔薇の花ほど相応しいものはない。花開きかけたその一輪の薔薇をじっと見つめながら、静かに微笑み、そして涙を浮かべる人もいた。
このアシュラムではこの施設に関わった人が亡くなった時にも、薔薇の花が重要なアイテムとなった。死者の身体はまず担架のような剥き出しの棺の上に寝かされ、瞑想ホールの壇上に置かれる。死者には薔薇の花や花びらが撒かれる。人々のしばしの祈りと瞑想の後、この棺は数人の男たちによって担ぎ出され、1kmほど離れた近くの河原にある火葬場まで運ばれる。道すがらインド特有の死者を祝福する賑やかな太鼓や鈴や笛の音色と歌が棺を囲む。またインド人の若い女性が棺を先導するように手かご一杯の薔薇の花びらを道にふり撒いてゆく。
火葬場では薪を組んだ上に死者を乗せ、その上に再び薔薇の花びらが降り注がれ、やがて火が付けられる。親しかった人々は死体が数時間かけて灰になるまでその一部始終をじっと見守り続ける。夕暮れに火が付けられた時には夜明けまで傍らに寄り添う。燃え続ける炎の周囲にも薔薇の花びらが散りばめられる。長い年月の苦難と重荷を下ろし、解放の時を迎えた魂にとっては、死は別次元への旅立ちの時。そして薔薇の花は生き残る者の感謝と祝福の印となる。
またある時にまったく異なる祝福のセレモニーに薔薇の花が使われたことがあった。
当時日本人としては誠に稀有な、光明を得た存在の太母さん(菊池 霊鷲:きくち りょうじゅ、1908~2001)がこのアシュラムを訪れたことがあった。それはOshoが肉体を離れる前年1989年のこと。晩年Oshoの体調がすぐれなかった時に太母さんが少しでも力になりたいと、御自身高齢であるにも関わらず、鎌倉からはるばる過酷な環境のインドまでやって来られた。この施設にいる人々が一同に集まりOshoと共に瞑想する毎夜のプログラムの冒頭に、Oshoは壇上から近くに座っていた太母さんを呼び寄せ、そして何も言わずただ微笑みながら金の器に入った一掬いの白い薔薇の花びらを頭の上からそっと振りかけた。
この時太母さんは日本から持参した純白の和服を着て静かに佇んでいた。
その光景のあまりにも美しい神聖さにホールを埋め尽くす人々から感嘆のため息があちこちから漏れた。
それは突然の、一人の人間が光明に至ったということを祝福するセレモニーだった。薔薇の花びらが持つ象徴としてのエッセンス、それが最終的な悟りの階梯に到達した人に相応しいということだと思う。
この世に存在する花はどれもみなそれぞれに個性豊かで美しく気高い。野や山に、あるいは道路脇のコンクリートの割れ目にひっそりと咲く一輪の小さな花もみな神秘的で力強く輝いている。そうした小さな存在でさえ「この世に生きるとは何か」「私はいったい誰か」という問いへのメッセージを常に発振し続けているように思う。人の心の奥に眠る花の蕾も、開く時には皆それぞれ個性豊かに美しく輝くことだろう。雨上がりに光る薔薇の花たちを見つめていると、そう囁いているような気がした。
(写真60枚)
北九州市立響灘緑地グリーンパーク内ローズガーデン
開園30周年 北九州市立響灘緑地/グリーンパーク【公式サイト】 (hibikinadagp.org)
ご覧くださりありがとうございます。
noterのラベンダーさんが一枚の拙い写真に美しい俳句を詠んでくださいました。
ラベンダーさん、いつもありがとうございます。