春が舞い降りた谷
北九州市八幡西区に、山間の谷を切り開いて造られた個人所有の梅林がある。造園業を営むオーナーが60年以上前から少しずつ植え始め、今では純白の「白加賀」や深紅の「サツマ紅梅」など約30種類、1200本の梅が育つ。
先日訪れた時は、全体的に満開には至っていなかったが、中には満開近い木も数本あった。数人の来園者が熱心に写真を撮っていたので、けっこう知られている場所なのだろう。
入園は無料だが、入り口に「維持管理にご協力を」という名目で募金箱が設置されている。公園として整備されているわけではなく、あくまで個人的趣味の範疇の広い庭のようなものである。草ぼうぼう、物があちこちに放置なんていうところもまた自然な感じでいいなと思う。
庭では飼育されている黑山羊が樹の幹相手に抱きつくように遊んでいたり、十数羽の鶏が一斉に鳴いたりと、のどかな里山の風景が見られる。
谷間に沿って流れる小川の水は澄み、水温が上がったせいか小魚がスイスイ泳いでいた。川を挟んで両側には小高い山が連なり、竹林や手つかずの原生林が谷間の奥の方まで続いている。所々、シイタケの栽培もしていた。
周囲には住宅地も無ければ、車が走る道路もない。聴こえてくるのは小川のせせらぎと沢山の鳥たちの鳴き声のみ。ここは野鳥たちにとっては楽園なのだろう。梅の花を撮りに来たつもりが、いつの間にか野鳥を追いかけることに夢中になっていた。
木陰でじっと佇み、花を求めて鳥が枝にとまるのを待つ。
そこで、はたと気づく。
その木の周囲一帯、梅の香りが濃厚に漂っていた。
見上げれば満開の花。
漂うというより、それは香りが上から降り注ぐようだった。
深い谷なので、風がほとんど吹いていなかった為だろう。
谷間であることの意外な恩恵に浴するということか。
人生の谷間も同じようなものだなと、ふと思う。
その時には気づかないが、後になってそこには恩恵があったと分かるときが来る。
やがて濃厚な香りに惹きつけられるように、様々な鳥たちが目の前にやってきた。相変わらず忙しそうに飛び回る。
ジョウビタキ、メジロ、ヤマガラ、アトリ。
そしていつものようにピントが合う前に飛び去ってしまい、撮り逃す。
野鳥撮影に訪れていた中年男性もぼやいていた。
「あと3秒間だけじっとしてくれたらなあ。」
そうそう、同感同感。
何もそんなに慌てなくても、と思う。
誰も捕って食べようとは思っていないのに。
ミツバチもブンブン羽音を立て飛び回っていた。
柔らかい陽射しが降りそそぎ、小さな命を包みこむ。
静かな谷間にそっと春が舞い降りた。