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キタくんはホットコーヒーが飲めない

「は……? 寮監、ですか?」

 新卒で入社したベンチャーで、人事部門に配属されて3年目の春。

 それは、突然の辞令だった。

「うん。八島くん、確か独り暮らしだったよね?」

「はい、そうですが……」

 ベンチャーと言ってもITとかではなく、イギリスのアンティークを専門で扱うこの会社は、社長の趣味で立ち上げたものだと聞いている。

 その道楽が高じてついに、イギリスの名門学校よろしく若手社員向けの寄宿舎まで造ってしまったらしい。

「やってくれるなら、家賃は全部会社持ちだよ」

 突然の辞令に戸惑っていただけだったが、僕が悩んでいると思ったのか人事部長から魅力的なワードが飛び出してくる。

 そして、ダメ押しの一言。

「あと、引っ越し費用も出そう」

「やりますっ」

 こうして、僕の寮監生活がはじまった。

 * * *

 そんな感じでなんの前知識もなく寮監となった僕だったが、思っていたより全然悪くなかった。

 というか、めちゃくちゃラクだった。

 ぶっちゃけ「男子寮」なんて、それこそ「キツイ・クサイ・キタナイ」のロクでもない環境なのではとびくびくしていたのだが、拍子抜けするほど何もない。

(それもこれも、彼のおかげやんなぁ)

 そんなことを考えながらキッチンと繋がっている共用リビングのソファでひとり、朝の日課になっている淹れたての珈琲を楽しんでいると、

「八島さん」

 今まさに思い浮かべていた、その人物に声をかけられた。

「あ、喜多くん! おはようございます」

「おはようさんです」

 その人物――喜多くんは、「寮長」というこの寄宿舎の住人代表みたいな役割をしてくれている、今年の新入社員のひとりだ。

「これ、頼まれてたやつです」

 そう言って喜多くんが手にした書類の束を僕に差し出す。

 それは会社から提出を求められた書類で、喜多くんがこの寄宿舎の住人の分を集めて持ってきてくれたのだった。

 こんな感じで、寮監として働きだしてから何かと助けられている。

「いつもありがとうね」

 僕はお礼を言いながらソファから立ち上がり、それを受け取った。

 スラリとした長身の喜多くんに対し、僕はというと平均身長よりもほんの少しばかり下回っているせいで、目の前に立つと自然見上げる形になる。

「寮長なんで、こんくらいは。それより……」

 喜多くんは小さく首をふり、ちらりとローテーブルにある僕のマグカップに視線を落とす。

「ええ匂いですね」

「あ、さっき淹れたとこなんで。よかったら喜多くんも飲む?」

 珈琲は、僕の数少ない趣味のひとつだった。最初はいろんな珈琲を飲み比べるだけだったが、今は自分で豆を挽いて淹れるくらいにハマっている。

「ここで飲む朝の一杯、悪くないですよ」

 そう言って僕は、改めてリビングを見渡す。まるで本場の寄宿舎の談話室のような雰囲気だが、それもそのはず。

 先ほどまで僕が腰かけていたソファも、マグカップを置いたローテーブルも、壁際のキャビネットや存在感のある振り子時計も、すべて会社で扱っているアンティークそのものだった。

 社長の「本物を知るには、本物に触れるべし」という考えのもと、社員寮には不釣り合いな家具が揃っているわけだが、実際この雰囲気で味わう珈琲はここに越してきてからの僕の楽しみになっている。

「……いえ。このあと予定あるんで、残念ですけど」

 少し考えた風の喜多くんだったが、そう言って軽く頭を下げるとリビングから出て行った。

 普段あまり出掛けない彼が予定ありというのも珍しいななんて考えつつ、僕は少し冷めた珈琲の残りを飲み干す。それから、いそいそとおかわりを淹れにキッチンへと向かうのだった。

 * * *

 この寄宿舎には、アンティークに彩られたリビング以外にも特徴的な部屋がいくつかある。

 そのうちのひとつが、資料室。

 会社で扱う様々なアンティークに関わる文献などの貴重な資料が揃っているのだが、大半が洋書のせいかほとんど誰も使っているところを見たことがない。

 社長ほどではないがアンティークが好きでこの会社を選んだ僕は、掃除のついでに写真集を眺めたりとひとり有効活用していたのだが。

 今日は、珍しく先約がいるらしい。

 普段は真っ暗な資料室に電気が点いていたため「なんや、勉強熱心なやつもおるやん」と思った僕は、せっかくなので顔を見てやろうと書架の合間を覗こうとしたところで、

「んっ……」

 書架の奥から聞こえてきたくぐもった声に、思わず身をすくませた。

 ……これ、あれやんな?

 まぁ、うん。あまりとやかく言うつもりはないのだが、一応は男子寮であり寮則で女子の連れ込みも禁止されている以上、寮監としてこのまま見過ごすわけにも行くまい――。

 心の中でそんな言い訳をしながら、好奇心に負けた僕はそぉっと書架の向こうを伺う。

「……んんっ」

 しかし、そこにいたふたりの姿を見て、僕は再び固まってしまった。

 僕に背中を向けているほうは誰かまでは分からなかったが、髪型や服装、そして体格からも男性、おそらくは寮生の誰かだろう。

 そして、その彼にキスしているのは――誰でもない、喜多くんだった。

(……予定って、こういうことかぁ)

 相手が小柄なせいで、少し前かがみになった喜多くんの手が優しく腰に回されるのを見て、なぜかドキッとしてしまい慌てて顔を引っ込める。

(知り合いのこういうシーンなんて、初めて見たけんなぁ)

 早くなった鼓動を落ち着かせようとしばらく胸を押さえていたが、どうにも気になってもう一度書架の向こうへ顔を出したその時、

「……っ!」

 いつから気付いていたのか、こちらをじっと見つめる喜多くんと真っ直ぐに視線が絡み合う。

 喜多くんの切れ長の目に見つめられ、しばし蛇に睨まれた蛙のようになっていた僕だったが、相手の子が身じろぎしたのをキッカケに慌ててその場から立ち去った。

 それでも、一度跳ね上がった鼓動はしばらく収まらなかった。

 * * *

 翌日の朝。

 僕はあくびを噛み殺しながら、いつものようにキッチンに立っていた。

 資料室から逃げるように立ち去った後、喜多くんと顔を合わすことになったらどうしようかとドキドキしていたが結局そんなことはなく。

 ただそれでも、夜寝ようと瞳を閉じるたびに僕を見つめる喜多くんのあの目が瞼の裏に浮かんできて、なかなか寝付けなかった。

 そのおかげで寝不足の頭をシャキッとさせようと、今日はいつもより濃い目の珈琲を淹れているのだった。

 行儀悪いなと思いつつもリビングに行くのももどかしく、淹れたての珈琲を立ったまま一口含む。

 口中に染みわたる、心地よい苦みをひとり味わっていたその時、

「八島さん」

「ぅわぁっ!」

 突然耳元で名前を呼ばれて、あやうくマグカップを落としそうになった。

「あちちっ」

 慌てて両手で持ち直してから振り向くと、すぐ目の前にいつもと変わらない様子の喜多くんが僕を見下ろしていた。

「喜多くんか、びっくりした……ど、どうしたの?」

 思ったより近くにいたので思わず後ずさりながら、僕は喜多くんの顔を見上げる。

 途端、昨日見た資料室のふたりを思い出して、かぁっと頬が熱くなるのを感じた。

「気づいてたんやろ?」

 そんな僕を見つめながら、喜多くんが静かに問いかける。

「えっと……なんのことかな?」

 もちろん、何を聞かれているのかは分かっていたけど。

 さすがに気まずさが先に立ち、僕はすっと喜多くんから目をそらした。

「へぇ……そういうこと言っちゃうんや」

 少し笑みを含んだような声でそういうと、喜多くんはマグカップを持つ僕の手を両手で包み込む。

 そしてそのまま僕の腕ごと自分の口元へと引き寄せると、飲みかけの珈琲に口をつけた。

「ちょちょっ、なにしよんなぁ?!」

「あっつ……こんな苦いもん飲んで……」

 思わず方言が出てしまった僕のことなど意に介した様子もなく。

 マグカップから顔を離した喜多くんは、少し顔をしかめながら上唇に残った珈琲をぺろりと舐め取り、口元だけで薄く笑った。

「八島さんとちゅーしたら、きっと苦いんやろね?」

「なっ……あっ……ぅ……」

 言葉が出ずに口をぱくぱくさせている僕を満足げに見ていた喜多くんだったが、ややあってぱっと僕の手を離すと一歩後ろに下がる。

 そのままくるりと踵を返して出ていこうとしたところで、

「あ、そうや」

 思い出したように顔だけで僕の方へと振り向いた。

「ボク、キツネ舌なもんで。ホットはあかんから、次からはアイスでお願いします」

 ちろりと出した舌先を指さしてからそう言うと、そのまま軽い足取りでキッチンを後にした。

 その場に残された僕はと言うと、

「……もう、普通に珈琲飲めんやん」

 まだまだたっぷり残っているのに口をつけることができなくなってしまったマグカップを手にしたまま、いつまでもそこに立ち竦んでいた。

【了】

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