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マリヴォー『偽りの告白』を読む#1
マリヴォー作『偽りの告白』を読みました。
本作は18世紀フランスを代表する、劇作家であり小説家であるピエール・ド・マリヴォーによる戯曲です。私が読んだのは、岩波文庫第五刷、鈴木力衛訳のものです。マリヴォーの代表作は『愛と偶然の戯れ』で、2011年には宝塚歌劇団でも上演されています。
初めに、今作に触れるきっかけとなったのは、私が受講している講義において、本作への言及があったことと、神保町古本祭りで、岩波文庫のブースへ行った際に見つけたことの二つです。受講している講義においては、戯曲作品、特に恋愛の戯曲、の一例として取り上げられていました。
私は、演劇には関心が薄かったのでその講義の際には聞き流してしまいましたが、偶然出会ったので購入した運びとなりました。その後11月の頭から、約二か月の時を得てようやく読み始めた次第でございます。
本作に登場する人物は10人、主要な人物に至っては8人というかなりシンプルな構造となっています。上流階級の人々とその使用人たちが登場し、上流階級の未亡人アラマントと、彼女に恋をしたドラントの恋愛を軸に話が進行していきます。
三幕構成となっていて、第一幕ではそれぞれの登場人物の詳細と立場と思惑が提示され、第二幕では物語が動き出します。そして、第三幕で終息するという真にきれいな起承転結で収まっています。あらすじは、あとがきにおける訳者鈴木力衛氏のものが簡潔で分かりやすいため、引用させていただきます。「筋はごく簡単で、生まれも育ちも悪くない、だが不幸にして財産を持たぬ一人の美青年が、美しい未亡人を見そめる。彼はかつての従僕デュボワの手引きで、その未亡人の家に執事として住み込む。それから先はマリヴォー独特の、男女間の微妙な心理の綾が繰りひろげられ、結局は二人の心が結びつく、といった梗概である。」(マリヴォー『偽りの告白』鈴木力男訳、岩波文庫、2009年、第5刷、125,126頁より)
上記の引用の通りに、本作の見どころはもちろん「マリヴォー独特の、男女間の微妙な心理の綾」であるといえます。引用における「美青年」ドラントと「未亡人」アラマントの二人が対峙し、互いの心のうちにある熱い恋心を探り合う場面は息をのむほどはらはらさせられ、読者の心も、彼ら二人と同じく、不安と喜びと希望で揺れ動かされます。
ですが、今回の記事ではその部分には触れず、あくまで私の本作に対する初読の感想を書かせていただきます。(決して意地悪などではなく、まだ浅学で触れる準備ができていないためです。#5くらいまでには触れられるように努めたいと思います。)
今作を読んで最も驚いたことは、その舞台装置の少なさに関してです。様々な創作物では、登場人物はどこかへ移動したり、何かを食べたり、何かを見たりします。例えば天気や、場面の舞台となる建物だって舞台装置です。本作では、舞台は常にアルガント夫人(アラマントの母)の邸であり、その外に出ることはありません。また、物語を動かす具体的な小道具は、肖像画と手紙の二つのみです。この、まるで童話や絵本ようなシンプルな構造が、この作品を非常に簡潔にし、「演劇」としての質を高めているのではないかと思います。(私はまだ演劇を見ていないのであくまで一感想です。)また、この要素が「マリヴォダージュ」Marivaudageと呼ばれる、マリヴォー特有のロマンティック・コメディを織り交ぜた、繊細な恋愛における人間の心理描写にノイズが加わることを回避させ、その繊細さと簡潔さを高めています。この作品において、肖像画や手紙はあくまで登場人物たちを動かす最初の衝撃でしかなく、あらゆる行動はすべて登場人物によって行われます。すべてが人為によって行われており、その心理が読者(観客)にありありと伝わってくる、それこそがMarivaudageの本質であると考えます。
本作は1737年にイタリア喜劇団によって上映されました。当時は封建制真っ盛りの時代であり、恋愛に対する社会意識も、自由恋愛ではなく、身分や地位に重きを置いたものでした。本作でも、アラマントは伯爵からの球根を受けており、母親のアルガンド夫人は、名誉や地位、金銭的な視点から伯爵との結婚を勧めます。そして、それに反発するアラマント。マリヴォーの作品は、当時の社会風俗に準拠したリアリズム的なものや、社会風刺性を持ったものと評価されます。当時のそのような恋愛観を皮肉った本作に対して、私は日本文学でも封建的な時代を舞台にしたものは、自由恋愛と当時の社会意識との対立を描いたものが多く、そのような作品はいつの時代も人気を博しているため、現代日本でも十分に面白く味枠ことのできる作品だと思いました。
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さて、長々と書いてしまいましたが、#1はここらで一区切りとさせていただきます。マリヴォー『偽りの告白』を読む、だなんてたいそうなタイトルをつけてしまったがために、感想や考察をまだまだ浅学で未熟な身ながら記していくのが少々重みです。まあ、頑張って続けていこうと思います。次回は、演劇を鑑賞(僕の利用しているサブスクなどにあった場合ですが)したのちに、もしくは再読してから、第一幕から順に分析(たいそうな言い方ですがただの感想ですね)していきたいと思います。実は本作、全く読む気じゃなかったんですが、ちょっと読み始めたら一気に読んじゃって…。戯曲系統は薄いし読みやすいしで非常に好ましいです。ケストナーの『独裁者の学校』もそうだったな~だなんて思います。これも、いつの日か書きたいですね。今回は、初めてのまともな記事ということで、まだ方向性が定まっておりません。読みにくい部分などありましたら、どんどんコメントください。一番不安なのは文体です。(ですます、がいいのか、だである、がいいのか、口語体がいいのか)全く悩みどころです。がんばります。