一念通じて雨が降る / 白藍ふうか【きょうだい】
デスゲーム同好会 6月〆分
テーマ「きょうだい」の作品です。優しい兄と、厳しい弟の話。
わたしには弟がいますが、直近の彼とのLINEの話題は年齢指定ゲームです。おそらく話相手が欲しいんだと思います。まだ購入すらできていなくて、ごめん、弟。
好き勝手書いた作品ですが、楽しんでいただけましたらさいわいです。
三つ年の離れた兄が車を買った。白の普通車、それ以上のことを俺は知らない。
知識がないからと言ってしまえばそれだけのことだが、免許を持たない俺にとって重要なのは「免許も金もない俺が乗せてもらえる車かどうか」に尽きる。だから仕方がないと思う。外車だの、この家の長男として恥ずかしくない車にしろだのと口を出す父が持ってきたカタログは一冊ではなかった。それを眺める兄に、まあ、一言二言口を出しはした。
実際に購入した車の価格は確認していないが、なんとなく、安い車ではないのだということはわかった。
輝く新車に付けられた初心者マークはよく映えていた。
「今日は塾あんの?」
そして今日も兄は、何の気なしに俺に尋ねる。
「あるよ」
ちょっと間を空けて、返事をする。あんたが俺と同じ歳に通っていた二倍の日数ある、とは言わなかった。
俺の返答を受けて、兄はひらひらと揺らしていた車のキーを握りこむ。特に予定も無いようで「じゃあ十分前に着くように出よう」と前置きして、出発時刻を口にした。俺は無言でうなずいた。
「運転の練習がてら、お前の塾の送迎をしたい」と兄に言われたのは、車が納車されてすぐのことだ。俺にとって車は足でしかないから、拒む理由もなかった。
利害の一致、のように見えるそれは、兄の厚意によって外見上のみ成立した関係だろう。しかし指摘する気にはならなかった。
大学の夏休みは長いらしい。高校一年の夏休みが終わってもなお実家で過ごす兄は、塾のたびに律義に俺を送迎する。
予定の時刻、先に兄は車に乗っていた。冷房の効いた車内では、軽快なJ-POPが流れている。Bluetoothで繋げたスマホで選曲しているのだろう。俺には歯がゆい歌詞にしか聴こえない曲も、彼にとっては感動的な音楽なんだろうと思う。
兄とは趣味が合わない。ついでに言えば、性格も考え方も合うと思ったことがない。
人が良すぎる彼の言動を見るたびに、俺はこういう人間にはならないと心の中で誓った。相手の求めていることを察し、それを嫌だと思わずに、むしろ相手のためになることを心の底から喜び、行為に移してしまう。そんな根からの人の良さを持っている。そして、それらをすべて破綻させずに完遂してしまう人間。器用貧乏どころではない。
俺はおもむろに自分のワイヤレスイヤホンを取り出した。
「今日はリスニングの練習するから」
「わかった、じゃあ静かにしてるよ」
「ありがとう」
リスニング問題の解答方法の説明を聞き流しながら、バックミラーに映る兄の顔を見る。
太陽は夕方になってもなお、強いオレンジの光で空を染め上げていた。西日を避けるようにして、体を傾ける。
英語教材が沈黙するたびに聞こえていた音楽は、いつの間にか消されていた。
兄の送迎はあっという間に習慣化された。初めての乗車から一年が経過した。
「リスニングCD、貸してくれるんだったら流すよ」
兄が俺に提案するのはごく自然なことだったが、今日はそれを拒否した。別に英語を毎日聴いているような勉強オタクではない。
ピ、とロックが解除された音が鳴って、俺は後部座席に腰を置いた。兄はバックミラーで俺の顔を確認し、「じゃ」と声をかけた。出発のためにカチカチ音が鳴る。
外へふと視線を向ける。降水確率五十パーセントという確率の雲は動きが無く、ただ日光を遮っているだけだった。
兄の安全運転は昨年と変わらない。ただし初心者マークは撤去されたようで、アンバランスさに首をかしげるような車ではなくなったはずだ。
兄の運転に身を委ねようとして、瞼を閉じる。次第に意識がぼんやりとしてくる。今日の兄の選曲は恋愛ソングか友情ソングか、はたまたドラマの主題歌になった有名歌手のものか。脳内で歌詞を日本語に変換し、兄のミーハーを笑ってやろうと思った。
けれど、待てども待てども、以前乗った時のようななじみのある音楽になることはなかった。
「なあ」
目を開けスマホを取り出し、こっそり曲名を調べようとした時、兄が口を開いた。
「湊は、どういう医者になりたいの」
目の前の信号は黄色に変わるところで、車はゆっくりと停止した。バックミラー越しに兄と目が合う。
「それ、聞いてどうするの」
「参考にする」
質問に質問で返すことを予想していたかのような即答だった。
「参考って、なんの」
「自分が目指したい人間像の」
「じゃあなんで医者って聞くんだよ」
少し黙ってから、兄がおもむろに口を開く。
「お前にとって、目指したい人間像と医者って職業は、切って離せないと思ったから」
淡々とした声色だった。
何をわかったような口を、と思う。俺とあんたはしょせん同じ人間の腹から生まれ、十数年一緒にいただけの関係だろ、と。
けれど俺がそれ以上抵抗できなかったのは、兄の言葉に俺への誤解が見当たらなかったからだ。
「そういうこと俺に聞くような人間だっけ、あんた」
「弟に興味がない兄だと思われてるのは、シンプル傷付くなあ」
「別にそこまで言ってない」
ため息をつくと、兄は笑った。
「あんたが俺に、わかっていることをわざわざ話題にするときっていうのは、たいてい俺を気遣いたいと思っているときだ。でも今日はそうじゃない。そういう会話をしていない」
しばしの沈黙。沈黙は肯定と世では言う。ならばそうなのだろう。
車内では、相変わらず聞いたことがない曲が流れている。
「じゃあ、どういう時?」
俺に問う声色は、ひどく落ち着いていた。
「迷ってるときとか、言い訳したいときとか」
今度は赤信号から黄色信号に変わっていく。兄の視線は戻っていた。
「なんか、そういうとき」
発信音は静かだ。高い車らしい。
「ずいぶん曖昧な答えだな」
そう言って笑顔をこぼした兄に「悪いか」と問えば、「悪くないよ」と返された。
「確かに曖昧かもしれない。でも、あんたの音楽の趣味よりずっとハッキリしてる」
今日流してる曲は知らないけど、と付け足す。
「そんなこと思いながら車乗ってたんだな」
「俺でも聴いたことある曲ばっか流れてるから」
「今日の曲は?」
「知らない」
兄と音楽の話をするのは、人生で初めてかもしれない。きっと兄は俺がどんな曲を聴いているのか知らないのだろう。最近のお気に入りは無印良品店で流れているやつだけど。
「お前はこの曲、どう思う?」
スピーカー部分を兄はトントンと指でつついた。兄と音楽で話が続いているのは、どうも変な感じだ。お互い、こだわり抜かれたような趣味はないはずなのに。
「そんな意識して聴いてない、けど」
言いかけて、数秒耳を傾ける。ギター、ドラム、ボーカル。おそらくそういう楽器なんだと思う。車と同じだ。俺には、それ以上細分化された分析も表現もできない。しかし素直な感想を述べることはできる。
塾の近くの駐車場に車が入っていく。どうやら今日は一度帰宅するわけではないようだ。
「まあ、悪くないとは思う。変なヒットソングよりは、ずっと」
綺麗事を歌っているわけでもないし、地獄を憂いているわけでもないような歌詞だった。けれど明確にわかるのは、人間を歌う曲だということだった。俺は嫌いじゃないなと思った。
この兄にしては悪くない趣味だ。
感想を素直に述べると、兄は黙って聞いた後、笑った。
「俺、この曲嫌いらしいんだよ」
言われたんだ。歌ってるやつから。お前はこの曲嫌いだろ、って。
兄は困り顔で笑っていた。それを見て、とうとう兄にもそういう人ができたんだなと思った。
兄が敵わない人。どうやら俺の知らないやつらしい。
この日以来、兄の車でミーハーなJ-POPを聴くことはなくなった。
高校生活最後の夏と言えば聞こえはいいが、俺にとって赤本の問題が以前より理解できるようになったことと、模試の結果を睨みつけることが多くなったこと以外は基本的に昨年と変わらない。睨めっこをしたって志望校に受かるわけではないので、結果は結果として受け止め、間違いを確認し、試験勉強に戻る毎日だ。
兄は今年の夏も実家にいる。去年よりも帰省の時期が遅いので、必然的に滞在期間も短くなるだろう。いつもは幼馴染とタイミングを合わせて帰ってくるが、今年は一人で帰ってきた。
「最後の夏だからって頑張りすぎるなよ」
「わかってる。疲れた状態で勉強するのは非効率だし」
「そういう考え方から察するに、ちゃんと休めてないだろうなー」
「うるさい」
あんたと俺は違うんだ、と言えば話は早い。しかし言葉を選ばずにそう伝えれば、きっと兄は軽快な返しにたどり着けないだろう。俺は少なくとも彼に、そういう嫌味を言いたくはないし、嫌味と受け止められても困るので、話を切り上げる。
「早く車出して」
「はいはい」
すっかり乗り慣れた座席に座ると、車が発進した。夏の夕空は低い雲に覆われていた。
兄が嫌いらしい曲は、車内でずっと流れていた。それは昨日今日に限ったことではなかった。去年の夏から、言葉通り「ずっと」。俺は黙ってその曲を聴いている。長期休みの期間だけ、塾までの道のりだけ。最多週四の頻度で聴かされている。
流行を追う音楽趣味だった兄らしからぬ行為に疑問を抱いた俺は、今年の春の時点でGoogleにこの曲を聴かせている。便利な世の中だ。音楽検索に引っかかったYouTube動画をタップすれば、曲が始まった。
再生回数が五桁に乗ったくらいの、インディーズバンド。兄が現在生活している市で活動しているらしく、SNSには他のバンドと一緒に行うライブの様子が投稿されていた。メンバーの個人名義のSNSを覗けば、社会人と学生が混合した集団らしい。兄と同じ学部の大学生がボーカル兼作詞を務めており、盛んに活動していると見受けられる。最新の投稿は合同ライブの成功を祝うショート動画だった。
「友人のバンドを応援している」。それ自体は兄らしい行為だ。仮に残ったCDを買ってほしいと頼まれていたならば、進んでそれを購入するだろう。顔が広く人気者の兄のことだから、枚数があったとしても捌く伝手がある。そのうえ不要な買い物とは感じずに、心の底から、必要な買い物として手に取るだろう。
「相変わらず、この曲聴き続けてるんだ」
からかう意味で、話を振った。この兄であれば、笑って誤魔化すなりするだろうと思ってのことだった。しかし兄から素早いキャッチボールはなかった。
それならと思って、俺は考えを巡らせた。そして最終的に、いい機会だと判断した。昨年の夏、兄を困らせていた事件に進展があったのなら、聞き逃すわけにはいかないと思ったからだ。
俺には聞く権利がある。
「あんたにこの曲の話した人って、バンドのやつなんじゃねーの」
確証があったわけではなかったが、そうとでも言わなければ誤魔化されてしまう可能性があった。だから、仮説が正しければ逃れられないような言葉を選んだ。
「『嫌いだろ』って言った人」
当たっていればいいなと思う。ある種の祈りも含んでいる。クサい友情の曲を己の友情に重ねることができて、大げさな愛の曲を己の愛に重ねることができる兄は、この歌に己の何を重ねることができるのか。
兄と俺の沈黙をよそに、車内では無慈悲に歌声が響く。
――誰かの選択を、自分の選択に挿げ替えるな。
――己の輪郭は見えているか。
誰かの生き方を穿とうとしているような、直接的なフレーズだ。あえてこの言葉選びをしているなら、作詞した奴は正しい。
「鈍感ぶった鈍感な、優しいやつを殴るための歌なんだろうな、これ」
窓の外ではポツポツと雨が降り始め、次第に強くなっていく。夕立だ。
しかし雨音が歌をかき消すことはなかった。否、スピーカーの音が小さくとも、兄には聴こえているはずだ。優秀な兄は、俺よりもずっと記憶力が良いのだから。
三つ離れた兄は昔から、搾取される側の人だった。
弱いからじゃない。劣っているからじゃない。強くて、優秀なくせに人への優しさを持ち合わせ、常に調和を望む。その上それらを最小の犠牲で成立させる器用さと他者に合わせる能力の高さを持ち、その場で求められる最適解を為せる。それだけならまだいいが、最も質が悪いのは、それらをすべて「自分がしたかったこと」にしてしまうところだろう。
それを幼いながらに最初に憂いたのは、兄の幼馴染だった。彼女もまた厄介な人間で、兄の優しさを享受している側だった。理解しながら、やめられずにはいられないのだったと思う。兄のことが好きな彼女は、兄の優しさに対し、知らないふりをして応えていた。俺から見れば、半分は優しさで、半分は甘えだ。
「湊は北斗のことが本当に好きなんだね」
俺がまだ小学生の時。近所の神社の夏祭りに三人で行った夜、彼女は俺にそう言った。
幼いころの俺は、時々無性に兄の言動に腹が立っていた。
それは夏祭りでも同じで、早々に金魚すくいのポイを破いてしまった俺に対し、自らのポイを差し出した兄に怒りが沸いた。「ムカつく、ムカつく、ムカつく!」と年相応の呪詛を吐きながら走っていく俺を追いかけ、公園のベンチに座らせてくれたのが彼女だった。落ち着きを取り戻した俺が、兄を見ているとムカつくんだと話すと、彼女は眉を下げて優しく笑った。
「優しすぎる北斗に、怒ってるんだね」
わたしはそういう北斗を好きになっちゃったから、湊みたいにはできないの、悔しいなあ。
チカチカ点滅する街灯に照らされた彼女は、ただ俺の頭を撫でた。
言葉の意味を理解するまでに時間は要したが、俺はずっと変わっていないのだと思う。
俺と兄はしょせん同じ人間の腹から生まれ、十数年一緒にいただけの関係だ。
おまけに俺は兄に何一つ敵わない。運動も勉強も、兄に適ったことがない。
けれど兄に対して劣等感の一つも感じたことがないのは、兄が俺を心の底から思い、理解し、時には身を以て庇うからだ。力を持つ人間のくせに、その力を振るおうとはせず。むしろ他者を傷付けることを避けて、己の首を絞めることを良しとするような人だ。
だから兄に怒っている。舐めてんのかと。あんたが庇護したい人間が全員、あんたの優しさに気付かない愚図だって思っているのかと。それに気付いて、傷付く人間がいるとは考えないのかと。
でも俺が言ったって仕方ない。兄にとって俺はきっと大切な弟であり、俺を見下しているなんてことは一切ないだろう。だから心の底から俺の思いを否定する兄は、想像に難くなかった。
だから、代わりに祈っていた。
兄と同じ土俵で、目線に立てる奴で、兄をぶん殴ってくれる奴が現れればいいな、と。
兄の沈黙は雄弁だった。けれど彼が運転手の役目を投げ出すことはなかった。俺は窓の外を眺めていた。
じきに塾の看板が見え、辟易する。県内一の合格率を謳うパーセンテージに兄が計上されているのならば、誇大広告だろう。兄は塾に通わずとも、今の大学に合格できただろうから。
両親と話し合った末の進学先であることに俺は当時不満だったが、案外悪くはない選択だったのかもしれない、と思う。もちろん今でも納得はしたくないが、結果としていい出会いがあったのなら、それに越したことはないとも思う。
ハンドルを切って、道路脇に兄が車を止める。カチカチという音は、オーディオから流れる音楽の拍に合わないので、いささか奇妙な旋律になっていた。
集中的に振っていた雨は落ち着き、雲間から夕日が差し込んでいた。
「湊」
「なに」
「今日、塾終わったらそのまま飯とかどう?」
車から降りようとする俺に、兄が声をかけた。目をやれば、視線が合う。
「別にいいけど……、何食うの」
「お前の行きたいところでいいよ」
「わかった。まあ、合間に考えられたら考えとく。けど、まあ」
再びサビが流れている。俺の視線が一瞬そちらに向いたことに、兄は気付いただろうか。
「その代わり色々聞かせろよ。大学の話とか、友達の話とか、色々ね。ハズいとかいまさら無し」
兄から「えっ」という声が漏れた。俺からしてみれば、当然の報酬のはずだ。どれだけ祈ってきてやったと思ってるんだ。
だが間違いなく、兄は俺の要求を受け入れるだろう。
「お前には敵わないよ、ほんと」
前言撤回。俺は兄に何一つ敵わない、は嘘だった。
「そりゃそうでしょ、俺は兄さんの弟だからね」