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菊池一族と延寿鍛治展に行ってきました⚔

こんにちは。今回は菊池市で開催されている『菊池一族と延寿鍛治展』(刀剣展)に行ってきましたので、そのレポートになります。写真撮影OK、SNS拡散OKとのことだったので、菊池一族お抱え鍛治「延寿」の刀を中心に幾つか写真をUPしたいと思います❣️因みに私は刀剣展は初めてで、最初、日本刀怖そうだから見に行くのどうしようかなと迷ったのですが、実際見てみると怖さは感じず、職人さんの魂が込もった精巧な芸術品だと感じました。私は刀剣に詳しくないので、刀剣ごとの特徴は分かりませんが、それぞれの鞘や柄などの刀装の美しさにも魅了されましたので、そちらの観点からも楽しめると思います💡(1800字)
※先端恐怖症の方や刀剣苦手な方は無理されないで下さい🙇‍♀️

刀剣展の会場 菊池神社歴史館

刀剣展では延寿の刀以外にも、そぼろ助廣や同田貫上野介正國、後鳥羽院御番鍛冶宗吉などの目玉刀剣が多数展示してありましたが、(私には刀剣よく分からないこともあり💦)今回は延寿の刀剣数点と延寿の祖である来(らい)一派の来國俊の短刀の写真を載せさせて頂きます。その前に、まずは延寿鍛治の説明を、菊池市のパンフレット冊子から引用させていただきます。↓

 菊池一族のお抱え鍛治として数多くの刀剣を作り出したのが延寿一族です。延寿鍛治の起こりは蒙古襲来(元寇)の頃といわれ、菊池家では10代武房の時代。強靭な蒙古軍を迎え打つために強い刀の必要性を感じた武房が、京都の刀鍛冶・来(らい)一派の刀工を菊池に呼び寄せました。それが、延寿派の創始者・延寿太郎国村です。
 この後の筑後川の戦いをはじめとする数々の戦いに勝利し、15代武光と懐良親王の手で九州制覇が成し遂げられた陰には、延寿鍛治が鍛えた刀剣が豊富に供給されたこともあると言えます。

菊池市『菊池一族歴史さんぽ』p.9

また、菊池市によると、13代菊池武重さんが足利軍との箱根・竹之下の戦いで用いた集団戦法「槍ぶすま」で有名になった「菊池千本槍」と呼ばれる槍も、合戦後に延寿一族が量産するようになったと言われているそうです💡

因みに菊池市の延寿屋敷跡を散策した際の記事はこちらです↓未読の方は是非宜しくお願いします!

それでは、延寿鍛治の刀剣の写真を以下に載せます。↓

肥後国 延寿國村 鎌倉時代
重要刀剣 延寿國吉 鎌倉時代

そして、以下の3点の短刀が個人的にはとても興味を惹かれましたので、詳しく見ていきたいと思います。↓ 美しい柄や鞘にもご注目下さい✨

重要刀剣 短刀 延寿國時 南北朝時代

この短刀には、「延元□十二五國時 肥州菊池住」との銘があり、資料価値が高い名刀だそう。銘文の「延元」とは南北朝時代の1336〜1340年の間に南朝方が用いた年号です。この頃は13代武重さんが活躍した時代です。南北朝時代の菊池に思いを馳せます。(遠い目)

穴が開けられていて見にくいですが、表面には「延元〜國時」、裏面には「肥州菊池住」の銘がしっかり確認できる

重要刀剣 延寿國時 (皇女和宮國時)

鎌倉時代

幕末の動乱期、皇女和宮(静寛院宮)が徳川将軍家にお輿入れの際に持参した短刀だそうです。公武合体の象徴として選ばれたのは菊池の延寿刀だったんですね✨将軍家にお輿入れされた宮さまも、時折この延寿の短刀を見て、迷いを断ち切り志を新たにされたのでしょうか。

重要刀剣 短刀 来國俊 鎌倉時代

菊池延寿は京都の来一派から別れた刀工集団ですが、こちらは来一派の名工・来國俊作の短刀で、元文2年(1737)5月28日に水戸藩主徳川宗翰より江戸幕府第10代将軍・徳川家治の御七夜祝義として献上された短刀だそうです。

さて、最後に来國俊の刀剣を持ってきたのは理由があります。来國俊は阿蘇神社の宝刀『蛍丸』の作者であることから、これをもって阿蘇大宮司一族シリーズのプロローグとしたかったためです。蛍丸は南北朝時代、南朝方として活躍した阿蘇(恵良)惟澄の大太刀で、代々阿蘇家に家宝として伝えられてきましたが、太平洋戦争後に行方不明となっている幻の名刀(国指定文化財)です。最近では『刀剣乱舞』でも有名になったようです💡阿蘇氏の史跡巡りシリーズでは阿蘇の観光地紹介も兼ねて、南北朝時代の阿蘇氏や蛍丸伝説を交えていい記事が書けたらいいなと思っております。ということで、これから阿蘇氏の勉強に入るので、次回の記事更新までには時間がかかると思われますが、宜しければまたお付き合い下さい❣️

『菊池一族と延寿鍛治屋』パンフレット
来週末まで開催中なので、お近くの方はいかがですか?

最後までお読み頂き、ありがとうございました😊

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