あおぞら
二十四歳十ヶ月と十二日目。今朝、月に一度の血まみれウィークが始まった。あたたかな血を流しながら、テレビでセックス・ピストルズのライブをかけながら書いている。
私は天使ではない。
私は女子高生ではない。
私はアイドルではない。
かつては。
トーキョーからもっと離れた海に近い街で、まっさらに生まれたばかりの頃には、よく男のコと間違えられる髪の逆立った天使だったかもしれない。十五歳はたしかに、劣等感だらけで、ヴィジュアル系とayuをイヤホンで聴きながら見返す、見返す、とCROOZブログに綴ってトイレで泣いていた女子高生だったし、十八の時、高校卒業と同時にオーディションを受けまくって、今もなお続いていそうな"アイドル戦国時代"の中にひととき身をおいた。
事務所を辞めてからも、まだまだ活力はありあまっていて、なんとかしなくちゃと今はない幡ヶ谷の音楽教室に通って、大学と並行して夜間の芸能養成学校のスクール生になり、卒業してしばらくはフリーターだった。
それらが全部過ぎさった季節のかけら。今、私は何者でもない。
ある尊敬するSSWの歌詞にこんなものがある。
"あんなにも 憧れて このザマじゃ ざまあねえな"
なんだかいつも生きづらくて、それをふっきるみたく心の底から光を目指していた季節。全部すぎてもまだここに立つ私に、かけらが残してくれたものは、根拠もなく私を走らせてきたほどの眩しい未来ではなかった。
頑張ってきたつもりで、変わってきたつもりだったけれど、そう簡単に、自分の素質というのは変わらなかった。私が好きで時々たどる暗渠みたいに、その流れに手を加えてかたちを矯正しても、ふさいだ上に花が咲いても、底の方で私の性質の色やにおいをした水は流れ続けている。ずっと。そして、ふとした時にしみ出してくる。
その度に"こんなんじゃダメだ""もっとこうならなくちゃ"とあらがいながら、やっっっとたどり着いた今。つよく思うことは、これまでダメダメなこともあったし、けっして完璧じゃなさすぎるこのザマで、
上等、
ということだ。
やーー、こう思えるようになるまで、リアルに十年以上かかってるよ。笑
ティーンエイジャーから、今、自分の部屋でシドの声を浴びながら文字を打ってるこの瞬間まで、一分一秒、どんなことに悩んでいたか頑張ろうとしていたか望んでいたか、覚えている気がするもん。
いつも同じことだったな。
社会でうまく生きられない。ふつーにみんなみたいにいられたらいいのに、できない、じゃあどうする? かがやきたい、とか。
じゃあこれからどうしようかと、いつも道を選ぶ前にさらっと進めば良いのに本当にこれでいいのか?どうしたらいい?そんなことを本気で考えて、勇気は足りないまま、当たり前の真ん中じゃなく脇に何かないかさがしたくって、時々ひとりだってかまわないからと、ぐねぐねした道を行った。
文京区谷中の、へび道みたくね。(好きだね)その足取りは、言葉たらずじゃ説明がつかなくても、ちゃんと内側で生きてたと気づいて、今はやっと、愛しく思えている。
同じことにほんろうされながらも、十年前の私と今の私が違うことといえば、目に映したうつくしいものが増えていっていることかもしれない。ゆっくりと。
今まで自分が何かを探して、肩肘をはって選んできた道の上。そこで見たものは時々、ほんとうに素敵なものだった。
それはスポットライトや、女の子たちの衣裳と化粧道具が散らかる楽屋や、涙や、高円寺でのたった一夜のことだったりする。ひとりになった先に誰かがいたし、あたらしくて懐かしい音楽があった。
そういう自分のことを書くかずっと迷っていたけれど、この夏は書いてみたい。大丈夫、CROOZブログの頃みたく、泣き言とあまずっぱい自作の詩と、自撮りの写メというようなものにはならないだろう。(若気の至りです)(自撮り、毎日していたな…)
たった一抹の本当の光をにぎるまで、どう生きてきたかということ。過ぎ去った季節のかけら。暗さも、かりもののフォームも、迷子も、かっこわるかった、かっこよくなるために。
私は絶対、希望が書きたいな。