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ダウン症児中絶⑤産褥期編
悲しみが、突き上げるような悲しみではなくなってきた。
産後休暇が与えられたこの8週間。自分の子供は腕の中にはいないのに、どうして過ごせばいいんだろうと思った。
ワーカーホリックとまではいかないけど、自分はなかなか働いていることが日常ではあったから。
仕事で無理をして思い詰めてから、体に不調をきたして、数か月休むということを繰り返している。
人生において正社員として働くようになってから8年、休職することは4回もあった。
今までの休職は本当に身体がきつくて、とにかく脳と身体を休めようという気持ちだったのに、今回ばかりは何かしていないと、子のことや将来のことをネガティヴに考えてしまっておかしくなりそうだった。
もともと産休に入ったら在宅ワークできる職に転職したいという気持ちが去年の末ごろから湧いていた。この休みの間、スクールに大枚をはたき、プログラミングの勉強をすることにして気を紛らわせることにした。
○火葬について
まず退院した後、火葬の日取りが決まっていなかったので決まるまでは毎日夫婦で面会に行った。
日によって面会できる時間はそれぞれ違った。1時間の時もあったし、6時間のときもあった。
取り上げてくれた助産師さんが来てくれたり、先生が来てくれたり、義両親が来てくれたり、いろんな人に囲まれて話しかけてもらった。
火葬の日は立ち会いができないとのことなので、その日は自宅から葬祭式場の方角に向かって祈った。
火葬の日の1週間後、16時ごろにお骨が届いたとの連絡が入った。と同時に電車に乗って病院へ向かった。
早く迎えに行ってあげたい、と思った。
「お骨を受け取りに来ました」と言うと受付の人たちはみんなすぐさま顔色を変えて「あっ…」て顔をして、待っているように言われた。
しばらくすると子は香典返しの紙袋のようなものに入ってやってきた。
受付の人が「びっくりされないでくださいね、壺を開けるかわからないので…」と話してくれた。
骨壷には10円が2枚入っていて、渡り賃だという。行ってくるぶんと帰ってくるぶん。
病院を出ると、子を抱いて泣いてしまった。
あの日の子を抱いた感覚がよみがえってくる。あったかくて、ちいさくて、愛おしかった記憶。
大切な思い出。
今日は料理のやる気が出ないし、冷凍食品でも買っていこうと決意して買い物をして帰った。
子を連れての買い物はすこし大変だった。
帰ってから、骨壷を前にして1時間くらい泣いてしまった。
どうして涙が出るのか、もうわからない。
だって子はここにお骨で帰ってきて、子の魂は神様のもとに帰って、また私たちのもとに新しい身体をもって、帰ってきてくれる。
でも、子の魂がここになくて、私の腕でまだ抱けないことがものすごく寂しくて、私は泣いてしまう。
そこに子がいるのに。
会いたい、と思わず漏らしてしまった。
私ばかり涙してしまって、夫のことが心配になった。「無理やり泣こうとしてるわけでも、泣かないって我慢してるわけでもないんだよ」と言ってくれて私のことをずっと慰めてくれているし、私の方がずっと寂しいんだと言ってくれる。
子がいるから穏やかな気持ちになれるんだ、と言う。
私にはまだ難しいかもしれない。
数日後、何かできることはないか、仏壇を作ってあげられないかと思って、木材を買って来た。技術と工具が足りなくて挫折した。
仏壇の代わりに楽天でおうち型の本棚を買うことにした。テーブルに座ると向かい合えるように、テレビの前に子の場所を作った。
母がろうそくを作る体験をさせてくれて、ろうそくは自分で作った。お花も買いに行った。おりんも注文した。
お線香もお線香立ても買った。
時々、お供えもした。お菓子をいただいたら一緒に食べるし、苺を買ってきたら一緒に食べる。
次にお腹に来てくれるまではろうそくもお線香もおりんも毎日つけて、鳴らしていきたい。
○メンタルについて
産後1週間はふとした時に涙したり、自分の心の整理のためにnoteを書いたりしていたときに泣いてしまったり。
今まで参考にしていたたまひよとかルナルナベビーの通知に傷ついて、「出産した」ボタンを押して、また勝手に(生まれて、子が生きていたら授乳に苦労したりしていたのかな)と思ったり。
2週目から友人や同僚に話ができるようになった。
産後12日目、妊娠7ヶ月目の同僚に会ってランチ会をした。無痛分娩、痛くなくてよかったよ。子供可愛かったよーって言う話をした。
プログラミングの勉強は2週目から始めた。プログラミングのおかげで、そこまでずっと塞ぎ込むこともなかった。落ち込みはするけど。でも、余計なことを考えなくてよかったかもしれない。
自分の課題が進めば、前に進めていると思えた。
また子を迎える準備がこれでできる。
その反面で自分の今の仕事を手放すのは怖い気もした。看護師はとても安定した職業だし、転職したら1年働かないと育休は取れなくなるかもしれない。
焦らないようにとは思っても、私は第一子を早目に希望している。育休は取れたらいいなと思う。転職したらそれが叶わなくなるのは嫌だ。
これは解決していない悩み。
Xもとい旧Twitterのアカウントにはいろんなおすすめポストが流れて来た。
セックスレスで妊娠できない人、
高齢で妊娠にチャレンジしている人、
妊娠しても継続ができない人、
流産を何回も経験した人、
同じように1人目をダウン症で諦めた人。
妊娠における問題を抱えている人はたくさんいた。
第一子がいて、第二子が妊娠継続できなかった人もいた。正直、1人でも子供がいるのは羨ましかった。
そのうち妊娠報告ポストも羨ましくなって、見るのが嫌だと思い始めた。
現実に子供を抱えて歩くお母さんのことは羨ましいとは思うけど見るのが嫌というわけではない。
私も必ず、自分たちの子供に会えるはず。
…でも、本当に?
ふと将来のことが不安になる。
どう頑張っても、妊娠前のような、元のメンタルに戻れはしない。
○体調について
産後3日目まではものすごい量の出血があった。悪露ってこんなに血が出るのか〜と思うくらい、産褥パッドが重たくなるくらいの出血だった。
4日目からは生理2日目くらいに落ち着いて、1週間も経てば生理4日目くらいの量まで減った。
でもそこからが全然減らなかった。
鮮血もあるし、古い血もある。
産後14日目、婦人科受診の予定だったので診察してもらった。
先生から直径2センチ程度の胎盤遺残があると言われた。胎盤が剥がれきらなかったものが残っている。出血が落ち着かないのはそれが原因だった。子宮収縮剤を1週間分処方してまた2週間後に受診となった。
子宮収縮剤を飲んだ1〜2日目で血が多く出た。コアグラも多く出た。この時にあ、胎盤が出てくれたのかなと思った。
でも、その後もずっと生理4〜5日目のような量。もう少しで生理終わるかなという量をずっと繰り返していた。
どれだけ経ってもおりものに鮮血が混じったような色。量は減っても茶色のおりものになっても、しばらくすると鮮血が混じる。
産後28日目、4週間後の受診。
まだ体盤遺残があるとのことだった。
胎盤の大きさも変わっていない。前回が2センチで、今回も2センチ。子宮収縮剤飲んだのに変わらなかったんだなあと思った。まだ子を迎える準備ができない悲しさと同時に納得もした。
2,3日前まで、血が出ていたんだ。胎盤はまだ残っているんだろうと頭ではわかっていた。
少しだけ、胎盤が排出されていないか期待したんだけどなあ。ダメだったか。
この場合、どのような処置が必要となるのかを先生に尋ねると、採血してhCGの値でやることが変わるとのことだった。
また1週間後に受診の予定だそうだ。
hCGの値によって(妊娠継続しているくらいのホルモン量かどうかによって)今後このかかりつけの病院で診てもらえるか、大学病院に行かなくてはならないかが決まるらしい。
帰り道、hCGの値が高いとどうなるのか、低いとどうなるのか調べた。
どうやら通常分娩後に胎盤遺残がある場合は掻爬して出すらしい。これが結構痛いそうだ。
先生も念を押すように言っていた「大量に出血してしまう可能性がある」という点。これがネックになっているらしい。輸血ができる環境下でやらないと失血でショックになるんだろうな。
そもそも。
胎盤遺残の症例は分娩時に出血量が多い、という文献を見た。私は例外なのか、分娩時に出血量はそこまででもなかった。
次1週間後の受診時に胎盤掻爬で済むんじゃないか、と期待してしまう。一方でその日は占いによると
うまくいかないことには必ず原因があるもの。自分の至らない部分を素直に認め、今後の成長のために何をすべきか、しっかり考えておくといいでしょう。体調も崩しやすいので、無理はほどほどに。
と、ある。
子を迎えるには、まだ、難しそう。
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