『接客的な日常』に関する追記
この雑記を読んで、“で……結局タイトルの『接客的な日常』というのはなんだったんだ?”と思われた方へ。
正直申しまして、ただの言葉遊び、シャレの類です。
雑な言葉の使い方してすみません。
とはいえ、一度口にしてしまったからには意味をつけなきゃ『接客的な日常』さんサイドも報われない。
意味づけをしてみましょう。雑にでも。
生活とは即ち接客である
人とのコミュニケーション抜きに生活は成り立たない。
生計を立てなければ生きていけないし、信頼を得ていないうちはどうにも生きづらい。ついでに、優しくなければ生きている資格がない、とも言いますよね。
つまるところ、人は人に何かを提供していないうちは、自立できないわけです。
これが社会的動物の宿命であり、生活即接客、ぼくらはサービス業という業を背負い、これを生業としているんですね。
接客的であることは積極的であることと矛盾しない
接客的である、というのは、相手の視点に立ち、相手の満足を求めて行動する、という意味において『ビジネス的』とも言い換えられそうです。
また、少し意地悪な言い方をすれば『迎合的』なんて表現とも入れ替えられそうですね。
ですが『受動的』『消極的』とは替えられない。
なぜなら「接客するか否か」はあくまでぼくらが自分で決めなければならないからです。
客のことを思えば、自ずと選択肢は絞られる。
だから、反骨心との共存は骨が折れます。
ですが、主体性や自発性は、むしろ客に接する上でなくてはならないものです。
というか、“客”に接することこそ“主”の務めでしょう。
積極的であることは、むしろ接客的な生活のために不可欠な要素である、とさえ考えられそうです。
(……ちょっと飛躍しました。ご愛敬)
接客的な日常を歩む中で消極性は溶けていく
「周囲の人に対応して生きる迎合的な毎日の中に、崩せない型や譲れない聖域が浮かび上がってくるのではないか」
これはあくまで、人生に対するぼくなりの予想です。
当たっていたらいいなと思います。
ぼくにはまだ、そういう軸やら芯やらがないので。
おわりに - 余談
そもそも「こだわりがあったほうがいい」というのも幻想かもしれません。
捨てられないものができちゃったけど、それでも生き抜くために、人より何割か努力を増やす。
そういう子連れ狼みたいなハンデ持ちを“匠”と呼ぶとすれば。
それってなかなか、カッコいい生き様ですよね〜……。
以上、おわりです。