人類皆が忙殺されているこの社会と僕
今だけじゃなくずっと、僕だけじゃなく皆が、忙しさに殺されている。
単調で忙しい生活が人生を支配している
それなりに恵まれた環境で何不自由なく育ち、ある程度まったりとした進路を辿って真っ当な人生を辿っている僕でも、ずっと「忙しい」という感覚に追い立てられて生きてきた気がする。
だから、世の中の大抵の人間は、僕と同じようにいつも、何かしらの形で忙しさを感じているのではないだろうか?
人生を「慌ただしさ」の観点から振り返ってみよう。
生まれたときにはまず、自分で呼吸をすることが要求される。
次に母乳を自分で吸うことが必要になり、
寝返りを打ったり、体を起こしたりすることが求められ、
這いずったり立ち上がったり、
挙げ句の果てには言葉を話すことまで急かされる。
ここまでは間違いなく忙しい。
幼稚園・保育園に入れば集団生活のルールに適応することが要求されるし、
小学生になれば知識や思考力の発達成長を常に計測される。
受験戦争は大学まで続くし、
就職活動は中高大卒のどのタイミングでやったってしんどいものだ。
どの節目にもタイムリミットがあり、これまたいつだって忙しい。
そして僕の場合は今、大学卒業して社会人一年目の終盤。覚えるべきことも覚えられずにドタバタしながら、平日の僅かな余暇と週末の怠惰な時間を取りつつも、仕事が生活の大半を占めることには間違いがない。いつも必要なことにかける時間は足りないし、時間の浪費にはどこか罪悪感を感じる。
うん。今も忙しい。
人間が普通に生きていれば、関係性の網目が増え、責任や影響力が増大し、その分忙しさは増していく。人によっては徐々に、人によっては急速に。
というわけで、きっと死ぬまで忙しい。
そして大抵の人々は僕よりも忙しい
時間的余裕をたっぷり持った生活をしてきた自負のある僕でさえ、このくらい悲観的な「忙しさ」観を持っているくらいだから、世の人の忙しさは尚のことだろう。
そんなに忙しい人生をずっと送っていて、皆は辛くならないのだろうか?
人間は可哀想だ。いつも何かに追い立てられていて、心を亡っている。
そんなことを考えてみた。が、よくよく考えてみるとそうじゃない。
全ての生き物が人間より忙しい
そもそも「余暇」なんて概念の方が特殊なのではないか。
少なくとも、他の動物の行動には全て意味があるように思える。
「休息」はあっても「余暇」はない。人間にはある。
あ、そうだよな。「余暇」なんてものがある方がヘンなんだよな。
社会的な動物で、集団が色々な経験を共有し合うことで強みを発揮するシステムだから「余暇」なんて不思議な自由時間の概念が生まれたんだろうか?
そんなことを考えていると、忙しさの中にちょこっと「暇」が混ざるくらいが自然で、忙しくなくなるなんてことは、ないのかもしれない。
忙しいばかりの人生も、そう考えれば自然の摂理で。
無闇に悲観することでもない。そんなものだと受け容れて進めばいい。
もちろん、限度はあるけれど。