デザインにデザイナーの愛は必要なのか
”「愛」なんて別に何もないよ。愛されることには、「何か」があるはずなんだ。でも実際、「愛すること」と「愛されること」、結局それがあるだけ。すべてなんだ。” ─── テミス・トリス
デザインにデザイナーの愛は必要なのか
ふと、そんなことが頭の中をよぎって、私は深夜0時過ぎに近くの土手の地べたに座って、iPadにこの文章を打ち込んでる。なので、深夜のポエムみたいになっていることをどうか許して欲しい。笑
愛すれば愛するほど苦しい
そのデザインに愛着を持てば持つほど苦しくなる。
だから私は自分の手で形にしたものに愛着を持たないようにしようと必死になったこともあった。自分が傷つかないためだ。
だが、自分が愛着を持たないものを、世に送り出すのか?
愛のないものを誰かが愛してくれるのだろうか?
自分の愛がすべてではない
私の疑問とは裏腹に、自分の愛をデザインから切り離しても、人に喜ばれるものが自分の手からどんどん生み出されていた。
なぜだ?
答えは簡単だった。
自分ではない誰かの愛を、私が代わりに形にしていたからだ。
愛せないなら託してしまえ
ユーザーのことを本気で想ってないのなら、きっとその愛はただの自己満足となるのだろう。だから、ユーザーに共感できない、ユーザーを想えないのなら、誰かに愛を託すのも有りなのかもしれない。自分はその愛を形にする手足となる。
ただ忘れてはならないのは、恋は盲目であるように、愛も本当にその人が幸福であるか確かめなければ、それはそれはとても悲しい愛だ。
愛されるデザイン
別に自分がそのデザインを愛したって愛さなくなってどっちでもいいのだろう。ちゃんとそこに何かしらの愛があれば、
誰かに愛されるだろうさ、きっと。
同じく土手にいた恋人たちの邪魔をしないように、私はそっとiPadと閉じて家に戻ろう。おやすみ、世界。
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