何にでもなれるという可能性を残しておくと何者にもなれないという真実
最近よく考えることがある。
演奏家は、演奏家になる以外の可能性を捨てたから、演奏家になれた。
母親というのは、子供がある程度育つまでは自分の時間を持つことができない事をわかった上で、母親になった。子供を持ちたいと思った。つまり、自分の時間を諦めたから子供という尊い存在を持つ事ができた。
何かをするために何かを諦める。取捨選択。覚悟が必要なんだなと頭ではわかる。
覚悟とまではいかなくても、演奏家になりたい、子供を持ちたい、そこに強い願望、憧れがあれば、取捨選択とも思わない。むしろ、夢を叶えられる道に進むことを嬉しく思うもの。出来るかどうかよりも、やりたい!が先に立つ。圧倒的な情熱を対象に向けて邁進することができる。
私は何かになりたいのに、実は何も選べていないのかもしれない。自分がやりたいと思うことと、実際に出来ることは違うという真実を心の底で噛み締めるほどよく知っているから。
何かを選択すること、これまでもしてきた。それでも毎回、しっくりこない選択をしてきてしまったなぁ……ということ。
この何かを選択するという能力、スキル。
これは、子供時代にどれだけ自由に選ぶことができていたか、親がどれだけ自分に教育や習い事をさせてくれたか、自由に遊ぶことを許してくれたか。私がわたしであることを許してもらえる環境にあったのか。
そのことと関係があるような気がする。子供の頃に見た世界、それを大人になっても無意識に、親しみのある世界、価値観、考え方として選択するからだ。
私は、内気で人見知り。だけど、優等生。そんな子供だった。実は、小学生の高学年〜高校生まで、学校生活というものに馴染めなかった。不登校にはならなかったけど。いつも人がたくさんいて、きっと疲れていたのだよね……今思えばね。
私にはいつでも一人になれる自由が欲しかった。自分に戻れる時間が必要だった。自分自身になれる時間、が必要不可欠だった。
そういう時間は許されなかった。
自分の内側の声が自分には届かなかった。だから、どう生きたら良いかわからずに、外の世界が私に求めてくること、目の前のことをやれば良いんだと錯覚していた。
そうするうちに、どこか自分の可能性を残しておくクセがついたのかもしれない。
自分の内側のコアの部分にアクセスするのって気持ちの良い事ですか?
私は何だかこわくなる。もうここまで……って線を引いてしまう。自分の世界にダイブしてしまったら、私はもう誰ともかかわりを持てなくなる気がして。
人にそもそも関心がないのかも……って思ったら、自分がこれまで外の世界に合わせようとして、望んでいないけどきっとこれが正解!みたいな選択が全て間違っていた、みたいな気がして怖くなったりしないですか?
何にでもなれる、いつでも自分を外側に合わせるために変えられる、という余地を残すと自分自身にもなれない……という現実。
もともと内気で内向的。そして人見知り。自分の世界がありすぎるからそうなるのだ。
自分の世界のままに生きていいよ、お金のこと気にしないで生きていいよ、って言われたら、どんな世界を選び取るのかな。
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