海辺の漂流物をつかって美しい生き物をつくろう、というワークショップについて
こんにちは!
今日は去年7月におこなった「海辺の漂流物をつかって美しい生き物をつくろう」というワークショップについて、今更になってしまったのですが、語ろうと思います。
思えばプロジェクトの採択が決まってからというもの、慌ただしくフィールドワークや事前準備をおこない、展覧会の準備が始まってからはいよいよ本格的に忙しくなってしまって、なぜこのプロジェクトをやろうと思ったのか?という大事なことを多くの人にお伝えできていないままでした。開催にあたってはなんとか参加者も決まり、参加者それぞれの方とは丁寧にコミュニケーションができた感覚がありましたし、展覧会に参加させていただくこともできたので、その中でやりたかったことの意図(ステートメント)は説明できた気がしていました。
そんななか、つい先日知人から「夏にやっていた展示、オンラインでの公開講評で触れられていたね」と教えていただき、初めてそのことを知った私はすぐに動画を確認しました。
↑46分あたりから私の作品が講評されています。
オンラインイベント当日の日付を確認すると、仕事が入っていたようでリアルタイムで見れなかったことは仕方ないとして、一出展者として、ちゃんと見ておくべきだったなと反省し……。そして何よりも、講評してくださった博報堂の川廷昌弘さんが作品の意図をかなり解像度高く受け取ってくださっていることに感動しました。そこで、かなり遅くなってしまったのですが、あらためて作品に込めた想いを綴ろうと思います。
海とゴミとわたしをつなぐもの
海は誰のものでもなく、誰もがその恩恵を受けています。海に限らず、自然って、そういうものだと思います。
だけど、ほとんどの海には人が知らず知らずのうちに流してしまった、落としてしまった、飛ばされて流れ着いてしまったゴミが落ちています。
調べたところによれば、深刻な海ゴミの代表例といえるプラスチックは購入してから捨てられるまでの時間がとても短い素材であり、平均12分で捨てられるとも言われています。また、軽くて風に飛ばされやすいプラスチックは全体の32%が海などへ流出しており、生産量も爆発的に増えているため、このままのペースでいけば2050年の海中には魚の量よりもプラスチックの量の方が多くなるとも言われています。
5月のフィールドワークで撮影した、ポリバケツとエボシガイ
このように途方もなく大きな問題に直面したとき、誰もが「わたしにできることなんて何もないんじゃないか」という気持ちになってしまうと思います。
そんなとき、私は途方もなく大きな問題をひとまず自分の方へ「引き寄せてみる」ことにします。じっくりとモノを観察することで、問題に重なってみる。そうすると、なんだか怖くて得体のしれないものに感じていた問題と、その表象である海ゴミが一つの漂流物として自分の前にフラットに立ち現れるのです。もとは誰かが購入した製品であったもの。それが不意に所有者の手を離れ、流され、波に削られ、磨かれてここまで流れてきた。その過程で、人工物とも自然物ともいえないような風合いに変容してしまった物体に、ふと美しさを感じることもあります。その瞬間は、ゴミがゴミでなくなる瞬間であり、自分がその物体に差し出されている瞬間です。
ゴミ→(海に流される)→(海で変容する)→漂流物←を見る私
[漂流物←を見る私]=海の(風景の)一部
そのように考えると、ここで行われている観察は海の漂流物ごと自身を海と同一化する過程のようにも思われます。その過程を経ることで、海を大切にしたいという思いは「私」を大切にするということになりますし、そのような気持ちで自然に関わるということが、今とても必要なのではないかと思っています。
美しい生き物をつくろう
本来は参加者全員に、そのような過程を経て、海と自分を擦り合わせてから作品づくりに入ってもらうという流れをつくることが理想的ではあったのですが、時間や感染症対策の関係などもあり今回は私が代表して事前にフィールドワークとして5つの浜辺に赴き、実際に目に留まったものだけを拾い集めました。素材として得体の知れないものは拾えませんし、作業性を鑑みるとすぐに壊れてしまいそうなものや尖っていて手を傷つけてしまいそうなものは拾うことができません。素手を使って漂流物を収集することで、自ずとそのようなものを拾うことはなくなるので、やはり手は便利です。
ワークショップ当日はそのような過程を経て素材が集められたこと、上記で述べたような海ゴミの問題について簡単にレクチャーをした上で、あとは自由に作品を制作してもらいました。
このワークショップを開催するにあたって、「美しい生き物をつくろう」というテーマにしたのは、制作という行為を通して漂流物に触れ、自然・人工両方の漂流物の美しさや不思議さを感じ取った状態で、実際に海に生きているさまざまな生き物たちのことを想像してほしかったからです。
生き物というのはしたたかで、私たちが海に流出させてしまったゴミを棲家として共生環境をつくりながら生存戦略に役立てる仲間も決して少なくはありません。しかし、ほとんどの海洋ゴミは多くの生き物たちに棲みづらさと命の危険という脅威を押し付けています。このような現実に対して「作品をつくる」という形で当事者として関わることで、私たちは自身と問題を切り離すのではなく、問題の丸の内側の存在として共に在ることが可能なのではないでしょうか。
まとめと、その後
「SDGs」というとなんとなく漠然としたイメージを持つことが多いかもしれませんし、自分がそのために何を具体的にアクションできるかなんて、想像すらできないかもしれません。しかし、実際にはこのワークショップでの取り組みのように、個人がちょっとした関心を寄せられるかということに鍵があると思います。
わたしはこのワークショップの企画と実施という経験を経て、プラスチック製品の購入を以前よりも慎重に検討するようになりましたし、世の中にはさまざまな環境に優しい製品があることを知りました。少しずつですが、こういった製品を日常に取り入れることで消費のストレスを緩和し、地球を大切にしている感覚が自分の中に生まれたことが、結果的には一番嬉しいことでした。今後もyadorigiや個人の活動として、自然と自分の対話を題材とした作品は作っていくと思うので、その時はよろしくお願いします。
ちなみに下の竹繊維パッドはもうすぐ買ってから1年半くらいが経ちますが、とても重宝しています!価格的には使い捨てのコットンと比較すると、1年〜1年半くらいでペイできる計算ですが、洗濯するたびに愛着が増していく癒しアイテムです🧼🧼
以上、ワークショップ「海辺の漂流物をつかって美しい生き物をつくろう」についてのご報告でした。
和久井小弥子さんによる作品「自由に羽ばたく 自由なわたし」
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