なんだかんだギリギリ論
こんにちは!たまごです。
すべての世代に聖書をわかりやすくつたえる。クリスチャンとして生活しながら思うことをブログに書き綴っています。
みなさんは今どんなことをのぞんでいますか?またどんなことを祈っていますか?私たちの生活の中で、状況にあわせて必要なものがあると思います。聖書は神様が私たちに必要なものを満たしてくださるとありますが、その過程でさまざまな出来事が起こります。
今回のタイトルにもあるように、その必要なものをギリギリにくださることが多々あります。自然な人間の反応として、私たちは焦ります。笑 頭の中にこれまでにこれが必要、この後はこれ、という風に自分の考えがあるからです。
試されている私たちの信仰
ギリギリにせまってくる中で神様は私たちの心を、信仰を見られています。自分の考えだけでどうにかしようともがく中で、どのタイミングでもう無理だ、神様に頼むしかない、と思ってもらえるのか神様は待っておられます。
調子がよければ、最初からお任せすることができるでしょう。しかしだからといって、必要なものがすぐに手に入るわけではないときもあります。ギリギリまで待ってひやひやするより、あらかじめ余裕をもって準備できればどれだけいいでしょうか。
自分の考えでこれが必要だと、この場所にはこれなんだと合わないパズルを無理やり当てはめようとするのではなく、最後の1ピースを神様が必ず埋めてくださると神様を信じてどんと構えていられるようになるために、本当に私たちに必要なものは何でしょうか。
私たちが認識している世界のせまさ、脳みその小ささ
自分の考えとはなんと狭く小さいところでとどまっているのでしょうか。私たちに必要なもの、のぞんでいるものを前に、私たちは自分の知っている術では解決できないだろうと半ばあきらめていることがあります。
自分が知りうるあらゆるリソースをかき集めたとしても、自分の小さな脳みそで一生懸命考えても、どうにも解決できそうにないという思いがするからです。しかし、神様が見ておられるのは私たちが見ている世界よりも広く、神様のご計画は細かいところまで気を使われていて、神様はなんでもできるお方です。
旧約聖書 イザヤ書 55章 8-9節
「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道は、わたしたちの道と異なるからだ。ー主のことばー 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。
このみことばにあるようにわたしのこのちっぽけな頭では考えられないような神様の思いで私たちが行くべき道を開いてくださいます。神様はいつも私たちの想像以上の恵みをあたえてくださいます。
期待すること、私たちの希望
だからこそ、自分の力だけでパズルを完成させようとするのではなく、私には考えられないような考えが神様にはあるんだ!自分が一番いいと思ったものが必ずしも一番いいとは限らない、神様は私の考えよりもはるかに良い解決案をお持ちなのかもしれないと期待しましょう。
こう思うことができるまでの間、私たちが神様にお任せすることができるように、ギリギリまで私たちの信仰と心を見られます。時にはコーナーに追いつめられるようなこともあるでしょう。
そのギリギリの瞬間、「神様、あなたは私よりも私と私の状況をよく知っておられます。神様がきっとこの状況を神様の方法で解決してくださることを信じます」と祈ってみませんか。
何もしていなかったわけではないと思います。ギリギリまで自分も必要や解決のために努力してきたと思います。それでもなお、焦るほどギリギリのコーナーまで来たとき、この祈りは神様が最後のパズルのピースを直接はめてくださるという信仰告白となります。
毎日の中で主により頼む
私も仕事をしながら、この状況をどうやって解決すればいいのか途方に暮れてしまうことがよくあります。時間的にも状況的にもあきらめそうになることが毎日あります。でもそういうときだからこそ、そうだ、一言お祈りしようと主の前に静まります。
今日も、明日も、神様は私の信仰と心を見ておられます。その信仰とは毎日、神様の恵みなしには私は生きていけないことを告白していくことです。神様が必ず助けてくださるという希望をもった信仰とみことばをにぎってささげる祈りで、毎日わたしは神様に助けられています。
この嵐のような毎日を過ごしていく中で、神様の恵みなしにはここまでくることはできなかったと素直に言えます。この恵みをうける資格もない者が神様の限りない恵みをうけて、毎日生かされているのです。
イエス様は「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に表れるからである。」と言われました。(第二コリント12:9)
ギリギリの瞬間にも、神様により頼む信仰でどんと構えていられる平安がみなさんにあるようにお祈りします。