山あり谷あり、結婚までの道のりにみる共通点
こんにちは!弟子塾のたまごです。
すべての世代に聖書をわかりやすくつたえる。クリスチャンとして生活しながら思うことをブログに書き綴っています。
私たち夫婦が仕えている教会は、青年といわれる10代後半から30代前半が多いです。日本の教会の中でもこの年代が少ないといわれていますし、いろんな教会に分散していることを考えると同じ共同体に二ケタ人数いるのは珍しいかもしれません。
その青年たちと一緒に時間を過ごす中で聞こえてくる悩みが結婚です。イエス様をまだ信じていない人もコロナで新しい出会いに制限がある中、日本のクリスチャンも同じようになかなかクリスチャンの異性との出会いが難しい環境にあります。
私たち夫婦もまだ「結婚とは!」と語れるような立場ではないと思うのですが、周りの知り合いから聞こえてくる結婚までのストーリーを通して共通して思うことがあるので、今回はそのお話をしてみたいと思います!
聖書がいう結婚ってなんだっけ?
そもそも論ですが、私たちはどうして結婚するのでしょうか。どうして結婚したいのでしょうか。創世記2章をみると、人類初の結婚の話が出てきます。
旧約聖書 創世記 2章 18節
人がひとりでいるのは良くない。わたし(神様)は人のために、ふさわしい助け手を造ろう。
聖書を詳しく見てみると、なぜ結婚するのかというのはいくつかの観点で書かれていますが、神様が結婚という制度をつくられたとき、ひとりでいるのが良くないこと、配偶者・パートナーは助け手としてあたえられることが根拠として書かれています。
(その他部分については「ウエストミンスター信仰基準、信仰告白 第24章 結婚と離婚について」をご覧ください。)
極々自然なことですが、どんな人と結婚したい?理想のタイプは?こういう質問がでると、返ってくる答えはだいたい自分基準なものが多いです。わたしも結婚を深く考えていなかった学生時代はそうでした。相手の助け手になりたい、支えたいというような発想は大人だなと思います。
何のために結婚するんだろう
海外にいたときに通っていた教会の牧師先生が結婚の話をするときによく話すたとえ話がありました。その先生も引用していたと記憶していますが、あるクリスチャンのカップルが結婚を決意し、牧師先生のところに報告にきた話です。
結婚しようと思っていますと言うそのカップルに牧師先生は質問をします。「そうですか、何のために結婚するんですか?」カップルは迷いなく、「お互いのことを好きになって、愛しているから結婚したいです」と答えました。
「ではどちらか一方が、またはお互い相手をキライになってしまったら別れるんでしょうか?」牧師先生に受け入れてもらえる答えではなかったことがわかったカップルは出直すことにします。
後日、カップルは牧師先生をまた訪ねました。「先生、なぜ結婚するのかわかりました!聖書には生めよ、増えよと書いてあります。子孫繁栄のために結婚します!」すると牧師先生は「そうですねえ、結婚後、子どもがあたえられなかったらどうしますか。別れてしまうのでしょうか?」
聖書から答えを見つけたと思ったカップルはまた考え直すこととなります。
私たちはいったい、何のために結婚するんだろう。
このたとえ話は結婚について考え始めていたわたしにもチャレンジとなりました。牧師先生がそのカップルに勧めたのは、神様の御国のために結婚することでした。そんなキレイゴト、、、?と当時は思いました。笑
しかし、結婚して5年目の今はクリスチャンに求められていることは本当に御国のための結婚なんだと思うことが増えました。神様は自分と誰かが結婚して、一緒に住んで、子どもを産んで、年をとっていく、そんな流れをただ単に送ってほしいわけではないのです。
神様の愛、信仰、救い、永遠のいのちがあたえられ、シングルのときも神様とその御国のために生きていたのであれば、結婚してからも神様のために生きることを神様は期待されています。
結婚があたえられるまでの道のり
神様はいじわるな方ではないのですが、どうしてこの人には結婚がゆるされないんだろう?と思うことがあります。本人に結婚の意思がなかったり、行動に移していなかったりというわけではなく、チャンスがあったにもかかわらず、道が閉ざされてしまうのをときどき見かけます。
だからといって、神様はその人のことをほったらかしというわけではなく、その後ちゃんと結婚に導かれているのです。その間になにがあったんだろうといろいろ話を聞いているうちに、自分もそうだったかもと思う共通点を見つけました。
それは「手放す」という過程です。自分とトコトン向き合い、自分が神様の前にこれだけは譲りたくない!!と握って離さなかったなにかを手放した、神様にゆだねた、一回あきらめた、こういう過程があったのです。
何を握って離さないのか
内容は人それぞれです。お金に対する考え方だったり、将来への不安だったり、自分の理想の相手の条件というパターンもあります。特に結婚前にありがちなのが、相手の存在でどれだけ自分の欲を満たせるかという自己中心的な思いです。ひとりでいるのは良くないと助け手としてお互いの存在をあたえられるのに、相手のことをアクセサリーみたいに考えてしまうことがあります。
また、なんでもできる神様を否定してしまい、自分の考えや固定概念を握って離さない場合もあります。クリスチャン人口が1%もいない日本でクリスチャンと結婚できるわけないじゃんと最初から可能性をシャットアウトしてしまう人も見かけます。
結婚相手は何人も必要なのではなく、自分と結婚するのはたったひとりなんだから同世代のクリスチャンの人数が重要なのではなく、神様が自分に用意しておられるそのひとりがいるということを信じて祈ることが大事だと思います。
その流れで、相手がノンクリスチャンだったら結婚してから伝道すればいいじゃんという考えの人もいます。個人的な見解となりますが、イエス様を信じていない人と結婚してはいけないとは思いません。ですが、価値観、文化、習慣などの違いからそれなりの覚悟は必要かと思います。
わたしが握って離さなかったもの
結婚相手との出会いがあたえられるまでの2年間、早く結婚をしたいと思いつつも、たくさんのものを手放せずにいました。
海外で信仰生活を始めたわたしは、日本での信仰生活がイメージできず、帰国したら教会に通わなくなるのではないか、日本でクリスチャンとの結婚なんて無理じゃないかという不安でいっぱいでした。
そうなると、その国にずっといれるようにした方がいいんじゃないか、結婚もできるだろうし、信仰生活も守られる、こんな風に計算して考えて、日本でも働かれる神様に期待すらしていませんでした。
2年の間、この不安な思いについて泣きながら祈り、祈りの中で神様はわたしの固定概念を解きほぐして、考えを変えていってくださいました。この時に神様とトコトン向き合い、自分の思いや考え、自分の我を手放すこととなりました。
「神様、あなたがわたしをどう導こうとも、従います!」と告白し、神様に自分の人生をゆだね、握っていたものを手放した2か月後、結婚することとなるパートナーとの出会いがあたえられました。
手放すことの祝福
どうしても手放せなかったものを神様に譲ったとき、神様が結婚に導いてくださったり、彼氏彼女と付き合うようになったりしてる人たちが私たち夫婦の周りにもいます。
結婚に限らず、自分ではこれくらいいいじゃんと思っていた小さなことを神様にゆだねたら、神様のことをもっと深く知ることができて、うれしそうにしている友人もいます。結婚前のわたしのように年単位で時間がかかることもあるでしょう。
自分の中にある手放せないものを神様を信じて、一度おまかせしてみること。もしかすると結婚前のシングルのときにある程度まかせることができるようになることを求めておられるのかもしれません。
もちろん、結婚してからも夫婦で手放し、おまかせしなければならないことは毎日あります。ある夫婦は経済的な面でたびたびこのことを神様から求められています。だからこそ、自分の強い考えや我をたてるのではなく、私たちの想像をこえて導いてくださる神様に期待していきたいと思います!
まだ結婚について祈っていない人ならば、まずは自分と未来のパートナーのために祈ってみましょう。周りに気になる人がいるのであれば、この人と一緒に生きたら、どんな風に神様の御国のために仕えることができるかなとイメトレしてみることをオススメします!