Drive My Car ⅱ
「家出人探しは、疲れるんだよ」と神職大熊利八氏は仰った。秋も次第にその色を濃くし始めた10月の半ば、私は小諸の加増稲荷大神様に伺った。神官大熊利八氏はクマさんのお父上。ご紹介いただいて家出したAの捜索をお願いしたというところである。
私は心霊現象などに出会ったこともなければ人の話のレベルでもまるごとは信じ込むということのない人間で、神仏に対する信仰という点でも極めて薄弱な不信心者だと自認していた。ただ積極的に無神論だと言うこともできない。ヨーロッパやロシアの小説なども中途半端だが読み、新約聖書も拾い読みするという程度には世に信仰というものがあるくらいには受け取っていた。
加増稲荷の社務所は小ぶりの社の北に更にこじんまりとくっついた小屋という風情で、靴脱ぎを上がると利八氏はこちらの挨拶も終わらぬ内に「事故はもう済んだか?」と仰る。私は数ヶ月前に大きな自動車事故を起こしていた。幸いに人身事故には至らなかったものの我ながらよくぞ無事であったと思うほどの事故であった。普通に考えれば息子のクマさんから既に聞き及んでいらっしゃったと考えるがそうではなかった。「目は大丈夫だ。すぐよくなる」と、その時私は軽い結膜炎になっていた。利八氏は煙草の煙をくゆらしながら次々に私が気にかけていることを言い当てた。ドギマギするよりほかなかった。
後に知るところだが1972(昭和47)年の浅間山荘事件の折には群馬県警と長野県警が「犯人は今どこに潜んでいるか探してくれ」と頻りに訪れたということも伺った。
利八氏は炬燵に嵌まりながらほぼ途切れることなく様々な体験を語ってくださった(それはおいおい記憶をたどりながらまた書くとしよう)
本題のAの件に入る。Aの住所、生年月日を告げ家庭環境などもお話しすると「親爺はあまりよくないね」と言う。「子供に金さえ与えておけば勉強するとでも思っているようだ」などと仰る。
家出の後Aの両親とも幾度か会ったが利八氏の見立てになるほどと頷かずにはいられなかった。Aの父親というのは呉服商でしょっちゅう京都方面にでかけるそうで、商売はそこそこのようであったようだが、とりつく島の無いどこか木で鼻を括ったような、商売以外では頭を下げる気の無さそうな…一言で言えば大柄な態度の人物であった。母親は京都出身とかで、優柔不断で夫には完全服従という煮たか湧いたか分らぬ太りじしの女性であった。しかし利八氏はもちろんその父親に会ったことがあるわけではない。「子供っていうのはそんなもんじゃないよな」と付け加えた。
ややあって「ではお祈りするか」と神殿の方へ行かれた。私は引き戸一枚隔てた社務所にいた。扉越しに柏手を打つ音がまず聞こえ、すぐと祝詞が始まりやがて一定のリズムで刻まれる太鼓の音とともにご祈祷の声が切れ切れに耳に届く。居ながらにして身体が緊張する感覚に襲われた。10分、いや15分ほども声と太鼓の音がない交ぜになった響きが続いたかと思うとし~ん鎮まり、柏手を打つ音が聞こえた。
「う~ん、難しいな」社務所に戻られた利八氏は呟く。私がどう応じていいかわからぬまま黙っていると「今週か来週、現れなければ半年。だな。」と仰る。「大丈夫、生きてはいる。どういうのかな最初は山のようなところを行ったが海にも出ている。今は少しにぎやかなところに落ち着いているかな。元気だな」私は「そうですか」と言うよりほかなかった。利八氏の言葉を受け止めてもこれを誰にどう伝えたものか。Aの母親?伝えるだろうが彼女もやはり「そうですか」以外に言葉はあるまい。まして父親に至ってはおそらく「聞く耳持たない」に違いない。仕方ない。私のところで承知しておくよりほかない。ただ「生きている」という、それにはやはり安堵を感じた。
結果から言おう。半年後であった。私が加増稲荷大神様をお訪ねしたのが10月の半ば、Aともう一人のBが共に見つかり(親は警察に家出人捜索の願いを出していた)二人が家に戻ったのが4月の半ば、利八氏にみていただいてからちょうど6ヶ月目であった。きっかけはAの定期券の期限切れを渋谷で押さえられトントン拍子に身元が割れた。
AとBは家人との折り合いの悪さやAの信奉している芸能人への憬れなどから東京方面への家出を計画。貯金など掻き集め二人合せて数十万円を持ち、昼は山手線内で睡り夜は起きて終夜歩くという危機回避的行動をとりつつ、Aの憬れの芸能人が四六時中出入りしているという神奈川県の緑山スタジオに日参。やがて千葉の市川にアパートを借り一人は日給のもう一人は月給のアルバイトをして二人で暮らすよう工夫したらしい(Aに会って話を聞いたもののAも詳しくは語らずまるでぶつ切れのそばを口にしているようでトータルの要領を得ることができなかった)ともかく無事、そのようにしてこの家出譚は終るのであった(Bの家ともこの間交渉があったがこれはいずれまた折りがあれば書き留めておこう)ただ彼等の10月当時の動線は利八氏の言葉とおおよそ一致する。
情けないことに私は加増稲荷の利八氏にお礼に伺ったかどうか記憶が無い。その後なにくれとなく相談に乗っていただくという展開からクマさんを通り越しての往来があったわけだからいくら不信心親不孝の私でもおそらくお礼参りはしている(と思いたい)
Aに対しては実はかわいそうなことをしてしまったという反省がある。Bの方は学校側が何とか「卒業」という処置を講じたのに対してAには学校内記の規定を厳密に適応して出席時間不足から単位不認定とし、休学措置にしたのである。Aは復学を嫌い通信制に通うことになったが元来が勉強嫌いで確たる動機も無いままのこと通信も中途で放棄し辞めてしまったそうである。その後Aがどうしているか、私には分らない。
東北行の森君運転する車中、思い起こすままに上記の話をした。「おかげでアッという間に福島に着けました」と感謝された。まぁ、少しは助手席の役目を果たせたということだろうか。うん、そうしておこう。