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「大学で学ばない自由」を認めてほしい〜教育格差を問い直す〜

私の家族、親戚には大卒者がいない。仲が良くて賢いおじいちゃんは中卒だし、親戚も親も高卒ばかりだ。

この文章を読んでどう感じただろう?残念だとか、可哀想だとか思っただろうか?大学の学費が高いことや教育格差の問題を引き合いに、その是正の必要性を感じただろうか?

これは私の家族の実態であるが、実は誰一人として「大学に進学したかった」とも「大学進学してほしい」とも思っていない。むしろ、私のおじさんは娘と息子が普通科に進学してしまったことで、大学進学が決定的となり、高校卒業後に働かないことに落胆していた。しかも、いとこたちは自ら「高校を卒業したら働こうと思う」と言っていたことを私は覚えている。それでも、中学校の教員は普通科に進学することを強く勧めたらしい。私が大学に進学するときも、否定的であった。私の母も「別に行きたくなければ、大学は行かなくてもいい」といつも口にしていた。ただ、私は大学に入学してしまった。晴れて(?)私は私の家系において、初めての「大卒者」となり得る存在になったのである。私の親戚も、家族も誰一人として心の底から大学に入学したい!とは思っていなかった。私やいとこが大学入学を強いられた(社会的に強制された)のは、大学に入学しないと貧困に陥る社会であるからに他ならない。冒頭の文章で私が問題提起したかったのは、これを読んでいるあなたが、もしあれを読んで「大学に入学しやすようにしてあげたい」と思ったのなら、私たち(非大卒家系)が望んでいるのは大学に誰もが入れる社会では決してないということよ、ということだ。私たちが求めているのは、大学に行かなくとも、貧困にならない社会にしてほしいということなのである。

これは直感的に私が気づいていたことでもある。おじいちゃんは中学校を卒業してすぐに自動車整備士になった。そして、私が12歳かそのくらいまで立派に勤めあげた。おじいちゃんは、先生に高校へ行くことを勧められてもそれを拒んだのだと言う。学校に行かずとも、独学でいろいろなことに触れた。博識な人である。この人は学校に行く必要はなかっただろうと心底思う。それでも、中卒であるという理由で、生活は貧しかった。私が祖父母に会いに行く時は、いつもボロボロの公営住宅にお邪魔している。おじさんも高校を卒業してすぐに働き始めた。彼も好奇心旺盛で、自宅でプログラミングを独学で学んでいたという話は、母から何度も聞いた。おじさんもきっと学校や大学に通わずとも大丈夫だし、今でも物知りで立派な人だ。しかし、おじさんも同様に高卒という理由で、今もかなり厳しい生活を送っている。子どもを2人育てるというだけでもかなり大変だろうに、2人とも大学に進学するとなると、莫大な費用が必要になる。いつもの仕事に加えて、学費のためにアルバイトを始めたそうだ。ストレスがかかりすぎている様子だった。

大して大学に行きたくもないのに、大卒じゃないと貧困になるから行かざるを得ないという人たちは、あまりにも多いんじゃないかと思う。まさに私や私のいとこはその典型であった。自分の親を見ているから、尚更「大卒」の肩書きは格差社会を生き抜くには必要不可欠になってしまっていると悟っていた。私は月に11万円もの貸与奨学金を借りて大学に通っている。貸与型とは、返済義務のあるいわば「ローン」である。借金を背負ってまで大学に進学しなければならないという社会がそこにあるのだから、今や大勢の者がこの借金を背負ってでも大学に入学する。きっと彼らの大半も、本当に心底大学で学びたいという人はむしろ少数派だろう。彼らは大卒の経歴のみを欲しているのであり、社会は実質的に大学入学を強制されてしまっている。この大学半強制入学の社会システム自体を変えなければならない。それによって借金を背負わなくて良いように(具体的な解決策の提案は後述する)。他にも、新聞奨学制度というものがあるのをご存知だろうか?これは朝2時と夕方5時にほぼ毎日、新聞を配る仕事をする代わりに、学費を新聞社が奨学金という形で支援する制度だ。一見すると良い制度のように思えるが、実態は過酷な労働環境である。大学に入学することが、社会的に強制されているから、学費を稼ぐために過酷な労働を強いられている人がいる。もちろん、大学の学費が大幅に減額されれば、ここに書いたような借金問題や学生の過酷労働問題は大体解消するだろう。しかし、現在日本の4年制大学進学率は5割程度である。彼らは大学(完全)全入時代において、貧困から抜け出せるだろうか?今、非大卒で困っている人たちをこれから大学に通わせることで格差を是正するとでも言うのか?それに、特に学びたい意志もないのに、大卒じゃないと貧困になるという理由で大学に行く羽目になるこれからの世代は問題ではないのか?義務教育かのように大学通うことが半強制され、学びたくないという意志を貫いた人が貧困になり、それを自己責任だと言うことは許されない。教育を受けることは権利であるから、当然大学に行かないことも権利として尊重しなければならないからである。

格差社会の解決策は、誰もが大学に入学できる政策ではない!

これまで説明してきた通り、私たち非大卒者の家系が求めているのは「誰もが大学に通えるようになり、貧困から抜け出せる社会」ではない。大学に行かなくても平気な社会、である。大学に行かなくても、一般的な生活(中間層くらいの生活)は普通に送れるようになってほしい。そうなったなら、私は大学へ行かなくてよかったはずだし、今すぐにでも大学を辞めたい。そして、大学に行った方が絶対良い!という価値観を押し付けないでほしい。大学で学ばない自由が保障されなければならない。

その具体的な解決策として、哲学者イヴァン・イリッチが提唱した【学歴差別禁止法】が必要だと考えている。より具体的にイメージしてもらうために例をあげよう。現在、大手企業や多くの中小企業では仕事内容が文系理系問わず行うことができる、いわゆる文理不問であっても、「大学を卒業していること」という要件は必ず求められる。学歴差別禁止法は、これを撤廃することを提案する法律だ。おそらく私が急に突飛な話をし始めたと驚いているかもしれないが、このnoteで繰り返し説明してきた通り、大卒ではなくても普通に安心して暮らせる社会こそが不可欠であり、そのような今のところ想像が難しい社会システムを実現しようとすれば飛躍的になるのは当然と言えば当然である。ただ、考えてみてほしい。非大卒者は一度就職した会社を辞めてしまえば、再就職先を見つけることは非常に困難であり、普通は収入が減る。それはどれだけ能力を持っていたとしても、「大卒ではない」という単なるそれだけの理由で貧困が連鎖することになる。だからこそ、それぞれの企業が学歴に関係なく採用を行うようになってさえくれれば、貧困から抜け出せるチャンス※は生まれる。具体的な方法として、履歴書から学歴欄を無くす、あるいは企業にどの学歴層をどの程度入社させているかを開示させるようにすれば良いと思う。もちろん、この法律が出来ただけで学歴差別は完全には解消しないだろう。そのことは提唱者のイリッチも承知している(『脱学校の社会』p.32参照)。それでも大きな一歩になることは間違いない。

(※貧困層が富裕層になれるチャンスを獲得できるだけでは不十分でもある。エッセンシャルワーカーの収入を税収から補填し、主に非大卒者が担う職業の賃金がより高くなるようにするべきだとも思っている。)

何度も繰り返すように、大学に行きたいという思いも大してないのに、大学に入学することを半ば強制されているという状態は、多くの人に当てはまるだろう。もしかしたら、これを読んでいるあなたも、「高卒の人生なんて想像できなかった。周りも進学するし、つられて私も大学に入った」という感じなのかもしれない。私は大学で学ばない自由、大学に入学しないくても良い自由を認めてほしい。大学に入らない選択を安易に取れない社会は、格差・貧困が固定化した自己責任社会だと私は思う。この文章が、格差社会の是正に関する解決策を、これまでとは全く違う方向へ舵を切るための助言になれば幸いである。

おまけ〜平等な受験競争のスタートラインは、格差社会を解決しない〜

多くの者は、平等に受験競争が行われていないことー例えば、塾に通える人と通えない人がいること、国公立大学にしか行けない人がいること、地域によって教育格差があることーなどを問題提起する。しかし、私からすればそのような解決策はむしろ貧困を固定化することを容認している。なぜなら、学力競争をすること、受験競争によって社会的な地位の配分、選抜による職業の配分を前提にしているからだ。これは簡単に証明することができる。学校や受験は学力に差をつける。むしろ差をつけなければ受験の意味がない。その差に基づいて富裕層と中間層、貧困層を振り分けていくというのが現代社会の基本的な学歴社会になっていることは誰もが知っている。しかし、だとすれば学力が上がったとか、良い大学に入れたことによって特定の人が貧困から抜け出し、富裕層になれたとしても、他の富裕層になるはずだった人が貧困層に落ちていくことになる。つまり、学歴競争は階層の入れ替え戦でしかない。だから、貧困層を学力向上で消滅させることは無理であり、むしろ(逆説的であるが)貧困層は不可欠な存在である。学歴社会では、貧困になる人がいてくれないと、富裕層になれないということになってしまうからだ。多くの人々はこれを理解していない。ゆえに、受験における平等なスタートラインが必要だという考え方に陥ってしまうのだ。

もっと言うなれば、大学受験にこれほどまでに一喜一憂している状態をもう少し穏やかにしなければならない。なぜここまで受験生が躍起になり、受験期というのはかなりセンシティブな期間となり、受験というイベントが特別視されるのかと言えば、受験が社会的な名誉や将来の地位と収入に大きな影響を及ぼすことを皆が承知しているからだ。誰もがその競争において同じスタートラインに立つことを目指すのではなく、そもそもその競争を緩やかにする(あるいは無くす)ことはできないだろうか?それが本当の格差是正措置ではないか?哲学者マイケル・サンデルは、『実力も運のうち 能力主義は正義か』において学力による入試を廃止し、抽選で入学者を決めてはどうかと提案する。抵抗感があるという意見も十分にわかる。これまで学力で誰かに勝つことが正しいことだと思って、私たちは勉強をしてきたのだから抽選で東大入学者を決めるとなれば「不公平だ」と思うのは当然かもしれない。しかし、本当に不公平なのは家庭の環境や運、あるいはたまたま勉強ができたと言う才能で、将来の収入の大きな差が不平等ではないと正当化されてしまうことではないだろうか?受験競争を平等に行うという格差の解決策ではなく、受験競争がなくとも平等な社会にするという発想は本当にできないのだろうか?

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