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知識と知恵の違い〜科学的な学びは本当に正しいのか?〜

知識と知恵の違いは何か

「知識よりも知恵を身につける」とはよく言ったものだが、これは知識と知恵の言葉としての違いを正確に捉えていなければ、歪んだ解釈につながりかねないと私は思っている。知識とは、一般にエリート的なニュアンスを含む。「知識階級」とか「知識社会」とかがその典型であるが、専門的で馬鹿には届かないという意味合いもあるだろう。一方で、知恵という言葉は生活の中で用いられる。田舎に住んでいるおばあちゃんの知恵とか、職人さんの知恵とか、伝統の中で受け継がれてきた知恵とか、常に伝統や生活の中で語られてきたのが知恵である。だから、知識と知恵は全く社会的背景が異なっている。言ってしまえば、知識はエリート主義的、官僚主義的な言葉。知恵は生活に根差したより身近な言葉である。ただ、冒頭の「知識よりも知恵を身につける」と言った場合には、いわゆる知識詰め込みの教育を批判して考える力のようなものを大切にしようという文脈で知恵が使われることになる。しかし、ここでの知恵はむしろ学校でつちかうようなエリート主義的な知恵になり変わってしまう。私が注意したいのはそのニュアンスの違いである。

以前の記事では、バーグ保守主義の説明をしながら、生活の中でつちかってきた暗黙知を大切にすることが重要であることを述べた。私は現代の社会が、知恵よりも知識を重要視し、あるいは生活に根差した知恵よりも専門的で科学的な学びを信頼し、価値あるものとして考えてしまうことに問題を提起したい。

「大学で〇〇を学ぶ」に潜む差別性

「大学に入って〇〇を学びたい」
「大学でレベルの高い人たちと学びたい」

こういうことは、受験を控えた高校生らがよく口にする。しかし、ここには大学進学者らの低学歴者の知恵を見下すような姿勢が隠されている。つまり、彼らの言葉の裏には、「大学で学んだことが最も学ぶに値することだ」とか「(良い)大学に通っている人こそ一緒に学ぶにふさわしい人だ」という侮辱的な発想がある。それ加え、学びには序列があると考えている。大学で学ぶことは生活の中でつちかわれるような「暗黙知」や「知恵」よりも価値あることだということを宣言することと全く同じなのである。なぜなら、学びに序列がなく、生活知(知恵)を大切に思っていれば、そもそも大学に入ろうとすら思わないからである。

学びに序列はあるのか?

しかし、ここで私が問いたいのは、「科学的な学び、学術的な学び、学問的に体系立てられた学び」は、果たして「生活の中での気づき、伝統によってつちかわれた知恵や暗黙知」よりも価値のあること、学ぶべきこと、正しいことなのだろうか?私には、科学至上主義や専門家支配によるアカデミックが全て正しいという姿勢が危険なように思える。このような疑問を持ち始めたのは、同日に2人の非大卒者から「俺はアカデミックなことはやっていないから、、、」と言われたことがきっかけだった。学問的な学びをしていないから、自分は正しくないと思い込んでいる。高卒の俺は正しくなくて、学問的なことを学んでいる人が正しいという感覚に違和感を覚えた。何より、そのような劣等感を非大卒者に抱かせていることが学校の問題であると感じたのだ。大学で教えているような専門家は、確かにたくさんの知識を持っているかもしれないが、だからと言ってこの2人より正しいことを言っているかというと、かなり疑わしい。私の大好きな哲学者イヴァン・イリッチは、この科学的分析を大衆が過信している専門家支配の時代では、例えば医者が次々に「病気」や「障害」を発見し、今まで治療の対象でなかった人々の治療費を納めることになると批判した(まさに専門家支配。。。)。これを医原病ということは何度か紹介しただろう。科学者は常に正しいわけではない。それどころか、むしろ正しいようなことを言っておきながら(科学的根拠を用意して)、実際には有害な存在になり得る。

学校による学びの独占、学校制度依存

科学的や学問的と、学校の間には強い結びつきがある。科学的な研究をしている人というのは、ほとんどの場合が大学などの学校で研究員をしたり、教鞭を取っていたりするような人であるし、あるいは学校で優れた学位を取得した後に民間に移った人などのことである。そして、科学的で学問的な学びを絶対的なものとか、誰もが最も学ぶべきことというように位置付けてしまうと、我々は学ぶに値することを学ぶには必ず学校でそれを学ばなければならないということになってしまう。イリッチはこれを学校が学びを独占している状態とした。人々が正しい学びをするには学校に行く必要があると思い込んでしまえば、何でもかんでも学校に教えてもらうことを求めるようになる。しかし、これでは結局正しいことは自分で気づくのではなく、専門家たる他者に教えてもらうことという発想が常につきまとう。これは果たして学ぶ力がある状態なのか。むしろ、自分で考える力を失った思考停止した人を作り出してしまう。専門家依存とは、自ら判断する能力を奪う状態でもある。

専門家依存からの脱却

専門家が小さな声に気づかずに、悪い方向に舵を切ってしまうことは多々ある。今だって、科学的根拠に基づいた教育を提唱する教育経済学者、中室牧子氏が批判されているように、測定学力を向上させるための教育改革がむしろ障害者を排除し、インクルーシブ教育の実現を妨げている。科学的と言われるものはかなり脆い。それよりも、我々が生活の中で思う「それおかしいでしょ!」という感覚や「もっとこうしたらいいのに」という直感に真摯に向き合ってみたらどうなのか。いろいろな経験や生活の中でつちかわれてきた「知恵」は、科学的・学術的な知見なんかよりもよっぽど役に立つ場面はたくさんあるだろう。

おまけ

私の好きな歴史家であるフィリップ・アリエス(『子供の誕生』で有名)は、自分のことを日曜歴史家と呼んでいた。要は、大学の先生でもなければ、研究を本業にしているような人でもなかった。しかし、彼は独学によって歴史家となっていった。学校化された現代社会では、このような人を受け入れる発想が薄い。無いことはないだろうが、コメンテーターに大学教授とお笑い芸人がいれば、当然のように教授を信頼する。ただ、このような態度にこそ弱点があるように思う。

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