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消費という労働〜生徒のシャドウ・ワークで飯を食う教師〜

以前、このnoteで教員の仕事は学校が存在することで過度に生産されるという話をした。要するに、学校は学ぶ必要もないものをカリキュラムに入れ込むことで、生徒はよくわからないまま学ばされ、それを教える教師すらもなぜこれを教えるのかわからないまま仕事をするという「需要の生産」が行われるのである。これは哲学者イヴァン・イリッチによって問題提起された学校制度の構造である。私たちは普段、勉強する理由を何であったか疑問に思うほどたくさんの内容を覚えなければならない。これをやって何になるのかと。ただ、これは教師すらもわかっていない。あるいは、わかっているようで後付けな理由を語っているに過ぎない。なぜ教師すらも勉強させる理由がわからずに現代の教育に失望するような事態になるのかといえば、それは学校制度自体が学習の需要を生産しているからである。

そして、この生産された学習内容の需要を消費することは、生徒の仕事である。この生徒側の労働をイリッチは「シャドウ・ワーク」というように呼んだ。学校によって作られた学習の需要は、いわば本来ならやらなくてもよかったような学習であり、消費する必要のない需要である。しかし、逆にいえばこの需要を生産する学校があることによって、初めて教師の雇用が生まれる。この教師の雇用を継続するためにも生徒には需要を消費するという労働をしてもらわなければ困るというわけである。また、シャドウ・ワークの特徴をイリッチは逆生産性という言葉で説明する。つまり、逆効果になるということである。本来学ぶ必要がないことをわざわざ他律的に教師から教授されることで、自分で学ぶはずだったことすら他人に教えてもらうようになり、学ぶ力や意欲はむしろ奪われるというのである。学校制度が生産した需要は、教師の雇用によって永続的に生産され続け、生徒の独学を邪魔することでシャドウ・ワークにより消費されるという構造を取っている。したがって、学校で教えられる内容の大半は各人にとって無意味なのであり、それどころか学ぶ力を奪う逆効果なものでもある。そして、生徒の無駄な勉強というシャドウ・ワークに支えられているのが、教師という職業であり、学校という制度なのである。生徒の学校における大半の学習は無駄なのだとイリッチは言う。

労働市場としての学校

イリッチの理屈は身近な例からすぐに理解できる。私は教育学科であるから、周りは教員になる人やなりたいという者が山ほどいる。彼らの多くが教師という職業につく、教師という労働者になるには、それだけの労働市場が必要になる。教師という職業につける人を増やすには、文科省が「学ぶべきこと」を増やし、学校を拡大し、教師の募集を増やせばよい。単純なことである。教師を目指す私の友人は、教えることが好きという理由も当然あるであろうが、それよりは単純に職が欲しいとか、生活していく賃金が欲しいという理由で教師という職業を選んでいる。これは他の資本主義経済と基本的には同じ構造である。私のパートナーも高専教員を目指しているが、教えることが好きだからというより(むしろ嫌いそうである)、職業として食っていくことに困らなさそうだから高専教員を目指すと言う。なぜ教師という職業は存在するのだろう?それも、これだけ多くの人が教師になれる労働市場が存在しているのだろう?普通に考えて、教えるという行為は生産活動ではないのに。答えはイリッチの提唱するシャドウ・ワークにあると思う。要するに、生徒が無駄な勉強に付き合わされている代わりに、教師の雇用が生まれているのである。学校事業は国家の一大"産業"となった。この背景には、生徒による消費という労働が常に隠されている。一般にこの消費という労働(シャドウ・ワーク)は、学習とか勉強という呼ばれ方をしている。そして、それがあたかも必要性が高く、誰もが取り組むべきものかのように語られるが、イリッチ によればこれは間違いである。勉強は労働である。しかも、教師の雇用を守るための、教師がご飯を食べるための労働なのである。

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