尾崎豊の『卒業』は学校を卒業する曲ではない。
私が人生で最も影響を受けた曲は、この尾崎豊の『卒業』である。
私が思うに、本当の意味で「卒業」ができたのか尾崎だけだったのではないか。
歌詞を見ながら改めて「学校」と「卒業」を考えてみたい。
私たちは「卒業」できていない。
尾崎は高校を卒業していない。自主退学している。
尾崎の言う「卒業」とはいったい何なのか。ここから我々が考えるべきことは何か。
尾崎の言う「卒業」は、当然ながらカリキュラムの修了ではない。
彼にとっての卒業とは、「支配からの卒業」であり、「自由」である。
ひとつだけ 解っていたこと
この支配からの 卒業
しかし、ほとんどの人はカリキュラムを修了し、卒業証書を学校から受け取ってもなお、また新たに次の学校に進もうとする。
新たな卒業を目指して第三者に評価され続ける道を選ぶ。
学校を「卒業」した者は、また新たに誰かが作ったカリキュラムの上に乗っかったり、あるいは学習をカリキュラムや学校化されたものに頼ろうとする。
つまり、「教科書」や「テキスト」を求めるようになり、
教師が教える行為を独占するようになり、
学びは偶発的なものであるはずなのに、計画的な学び(カリキュラム)を重視するようになり、
そして、そのような計画的で専門家たる「教師」からの学び以外の学びを認めなくなるのである。
全ての「学校」を卒業したとしても、思考には常に「学校」が残り続け、学校化された学び方を続けていき、また学校化された生き方(他者に支配されていること)を続けていくことになる。
尾崎はこの学校を形式的に卒業しても、人間としては卒業できないことをわかったいたのではないか。
この歌詞からそれが読み取れる。
俺達の怒り どこへ向うべきなのか
これからは 何が俺を縛りつけるだろう
あと何度自分自身 卒業すれば
本当の自分に たどりつけるだろう
学校を卒業したとしても、また何かが「俺を縛り付けるだろう」と歌っている。
そしてその状態は、「卒業した」とは言えないと尾崎は言っている。
なぜなら、自分自身から卒業するのであって、学校からするのではないからである。
ならば、私たちも学校的な思考や生き方ーつまり他者に支配され、指図される生き方ーに慣れてしまっている状態から自由にならなければ、本当の意味での「卒業」は叶わないはずである。
尾崎が「学校」についてよく歌っているのは、その支配の象徴こそが「学校」に他ならず、権力ある者に支配され、隷従する人を作り出している場所だという想いがあったからだろう。
校舎の影 芝生の上 すいこまれる空
幻とリアルな気持ち 感じていた
チャイムが鳴り 教室のいつもの席に座り
何に従い 従うべきか考えていた
学校の中で語られる「自由」を疑う
最近は、自由な学校とか選択科目がたくさんあって自由に履修できるなんてことを言うが、結局それは「学校の中」の自由でしかない。
「学校で学ばない自由」はないのである。
選べる自由はあっても、そもそもそこにいないと言う自由はない。
尾崎はそれも強く訴えていると思う。
仕組まれた自由に 誰も気づかずに
あがいた日々も 終る
学校の中で教師が言うような「自由」なんてものは偽物である。
制服がなかろうが、選択科目が増えようが、結局学校からは解放されていない。
しかし、誰もそれに気づかない。
それは本当の自由ではないし、学校化された発想の中であり続けるのであって、「卒業」できていない状態だ。
尾崎が提起した「学校化」の問題
尾崎は私たちの発想が「学校化」していることを批判し続けたのではないか。
卒業して いったい何解ると言うのか
想い出のほかに 何が残るというのか
人は誰も縛られた かよわき子羊ならば
先生あなたは かよわき大人の代弁者なのか
学校化されるとは、換言すれば、他者に隷従し、自分らしさを奪われるということである。
尾崎の言葉を借りるならば、「かよわき子羊」であるということだろうか。
そして「先生」がそのかよわさを生徒に教え込み、社会に隷従することを求める「代弁者」ということになる。
学校を退学することこそが本当の「卒業」
行儀よくまじめなんて 出来やしなかった
夜の校舎 窓ガラス壊してまわった
逆らい続け あがき続けた 早く自由になりたかった
「自主退学」という決断こそが、尾崎の「卒業」の答えだと思う。
社会の常識や周囲の目を考えれば、中退のハードルはかなり高い。
しかし、結局そのような視線に従い、自らの生き方を誰かに依存し続けることは自分自身を「卒業」できていないことを意味している。
そして、今を生きる私たちも「学校」に通いすぎているし、依存している。
生き方までも「学校化」している。
力だけが必要だと 頑なに信じて
従うとは負けることと言いきかした
「学校を卒業する」ことは、尾崎に言わせればむしろ真逆の最悪の意味を持つことであり、「従うこと」「負けること」なのだろう。