キリがない「良い教育」論争
良い教育というのは存在しない。そもそも"良い"という価値判断が主観的であるからだ。良い教育は誰かにとって都合の良い教育だとしても、当人にとって悪い教育かも知れない。普遍的な良い教育が存在するのではなく、教育した(された)結果に対して、それを良いと思った人と悪いと思った人がいるに過ぎない。教育を良いものと考える前に、教育という言葉を定義しておかなければならない。広田照幸氏は「教育とは、誰かが意図的に他者の教育を組織化しようとすること」(『ヒューマニティズ 教育学』2009)と定義する。注目すべきは、他者・意図的というキータームである。教育は、他人の学習に他律的にかかる行為であり、また意図的であって、その結果の良し悪しは問われていない。つまり、少なくともこの定義に従えば、教育は常に良い方向に導くものとは限らない。そして、このような教育の良し悪しや教育の定義に関する議論では、この結果の方向性が常に良い方向にむくことはないという指摘を受けることが多々ある。また、そもそも悪い方向に導くための教育も当然にあり得る。その典型が戦前の軍国主義教育であることは明らかであるが、あれも立派な「教育」ではある。どんな教育にしても、誰かにとって都合が良いように行われているに過ぎないことはいつの時代も一貫している。だから、良い教育と言う時には注意が必要なのだ。それはあなたにとって良いだけで、他の人にとっては全く良くないことである。あなたが主観的に良いと思っているだけであって、普遍性を持った良い教育ではない。
キリがない"良い"教育
教育は常に主観的に行われる。こう教える方が良かった。この知識は教えるべきだ。私の経験ではこう学ぶことがコツだ。誰もが教育された経験を持っているがゆえに、誰もが議論に参加できることは教育論の良いところでもあり、悪いところでもある。しかしキリがない。だからこそ、教育は常にいろいろな人からいろいろな方向で批判に合う。これは教育という営みの宿命であるように思う。(ヨルシカというアーティストの歌詞に「この世の全部は主観なんだから」というものがあるが、本当に深く共感する。人は価値付けることがあまりにも好きである。)各人が持つ教育への想いや持論は、貴重なものもあれば、アホみたいなものもある。もちろん、ここでの貴重な教育論かアホみたいな教育論かという判断は、私の主観によるものである。このような持論の展開の繰り返しこそがコメニウスに始まる教育学の歴史である。私が個人的に教育思想史がアホらしく思えてしまうのは、こういう主観と主観のぶつかり合いを見せられている気分になるからである。今日においても、そのような教育論は無数にある、というかそのようなものしかない。
主観的な教育を受け入れる
しかし、このような近代教育論争に終止符を打とうとした教育哲学が存在する。それが「教育」という行為それ自体をやめてみてはどうかと提案することになった脱教育、反教育の思想である。この流れは1970年代に台頭する。イヴァン・イリッチの『脱学校の社会』は、反教育学運動の理論的支柱となった。彼は、誰かが全く異なる他者の学習をどのようにすべきか、何を学ぶべきかを考え、正しい答えを導き出すことなど到底できないと批判した。これはキリのないこれまでの教育論争とは全く異なった発想である。良い教育とは何かを考えること自体が、教育の主観性を無視した無謀なことだとイリッチは気づいていた。これまでの教育論争は、教育思想史において「系統主義」と言われる詰め込み教育主義、教師中心主義と、「経験主義」と言われる主体性重視、児童中心主義の二派閥の間を行ったり来たりする水掛け論になっていた。しかし、イリッチの脱学校論はこのどちらとも違う第三の道である。学習はわざざわ他人に管理されたり、カリキュラムをつくって組織化されたりできるような計画的なものではなく、生活と密接に結びついて偶然に起こっていくものだと考えるのだから、教育の仕様がなく、二派閥と全く関係がないのは当たり前である。イリッチは教育という行為の限界を見ようとしていたし、いわば教育への諦めがあった。それは教育の主観性、キリのなさを受け入れたということだと私は思う。キリのない教育論争に飽き飽きしている人はぜひ、『脱学校の社会』を読んでみてほしい。
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