「間違える教師」を受け入れる
教師は尊敬されるべき存在だという価値観を、私は拒む。
個人が人間として尊敬されることはあっても「教師」が尊敬されている社会は、
むしろ自ら学ぶ力を奪われている社会である。
教師は絶対的な存在であり、間違うことなく、正しい、模範的な存在だと勘違いさせてしまうことは、避けなければならない。
教師は間違っているかも知れない
教師は人種差別主義者かもしれないし、
国際的な価値観の変容を知らない時代遅れかもしれないし、
偏った歴史観をもっているかも知れないし、
生徒のことを「人材」と呼び道具として見ているかも知れないし、
間違ったことを教えているかも知れない。
学ぶ者は、教えてもらうことを「正しいこと」として安易に受け入れてはならないはずである。
このCMはとても良い視点を私たちに与えてくれる。
セリフ
「先生も矛盾していますか?」
「矛盾だらけです。」
「そんな人が先生でいいんですか?」
「その方がみんなほっとするんじゃないでしょうか。」
このCMは、まず先生が生徒に対して(いわゆる"子役"に対して)敬語を使っていることから好感が持てる。
"子ども"を「子ども」としてではなく、「小さな大人」として認識し、対等に対話している。
矛盾した人が「先生」でも良い
彼の「そんな人が先生でもいいんですか?」という発言からは、「教師」が教えることを独占していることが象徴されている。
教師が権威ある存在、尊敬される存在であり続ける限り、学習者は「誰かに教えることができる」ということを忘れてしまう。
あるいは、教えることはハードルの高いことだと勘違いしてしまうのである。
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イヴァン・イリイチがこれについて的確に指摘している部分を忘れてしまったので、思い出したら追記したい。