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学校がない国を想像してみる

【フィクション】
愛知県長久手市は、独立運動を経て長久手共和国になりました。若者を中心に作られたこの国は、目覚ましい発展の結果大きな影響力を持つ先進国となり、独自の教育政策(?)を取るようになりました。

長久手共和国には大学がない

2050/5/17

この国には「大学に行く」という慣習はあまりありません。それぞれの地域には公益施設や地域共生ステーションがあり、誰でも集まっておしゃべりをしたり、学習会や研究会、読書会を主催することができます。このような学びのコミュニティには誰でもいつでも参加できます。主催されている研究会は、公益施設や図書館の掲示板に張り出されており、みんな自分の興味に近い集まりがないかをよく確認しています。世界史研究会や囲碁研究会、英語講座のように幅広い分野にわたって繋がりがあり、図書館で借りてきた本を片手に議論しています。

2050/5/29

他の国の大学のように、入学希望者を選抜するコミュニティもあるにはありますが、本当にごく稀です。多様性を受け入れることが大切だと皆知っており、やはり選抜をしてしまうことで失われる「能力」の多様性があることに気付いたのです。それに自然と集まってできたコミュニティでの学びに何ら支障がないことも今更ながら気づいたようです。

2050/6/8

昔、若い人たちの殆どが学校に通っていた時代には、通学する期間と春休み、夏休み、冬休みというように長期間の休みとが分けられていたようですね。若い人たちは「毎日が夏休みだったら良いのに」とよく言っていた気がします。今日の長久手共和国はまさに毎日が夏休み状態です。それでも若い人々は自発的に学習会に来ますし、運動もしています。変わったことと言えば、学校にやらされていたのか、自分でやりたいと思ってやっているのかということくらいでしょうか。学校に通わなくなると、若い人たちはダラけてしまうという懸念は的外れに終わりました。(そもそも今ではベーシックインカムもありますし、家でダラダラしていることはむしろ環境に優しい生き方として推奨されています。)

2050/6/30

人々が学校で学ぶことをやめて、図書館で本を読んだり、公益施設で学習会に参加したりというような自分達で学ぶスタイルへ移行することができたのは、ある画期的な法律のおかげでした。それは学歴差別禁止法という法律で、履歴書の学歴欄を削除するというものです。この法律ができる以前、「就職のために大学に行かなきゃならない」と社会から脅迫されているようで自由に学べない!と感じた市民たちが、就職や選挙への出馬、学習会への入会などの時に①学校に通っていたかどうか、②どこの学校に通ったのかを聞かないようにするルールを定めたのです。それ以来、高い学費を払って学校で決められたカリキュラムを履修する必要性を感じる人が激減し、結局市民が自発的に講座を開いたり、本を読んだり、インターネットで独学したりするようになったのです。

2050/7/20

今この国で「学校」といえば、自分の力で学ぶための読み書きを教えてもらう寺子屋のような場所のことを指します。いつまでも「学校」に通っていると「あいつは自分で学ぶこともできないのか」と周りに圧をかけられるので、長く在学しづらい雰囲気です。実際、長久手共和国では学校に通うことなく生きてきた人の方が多いのではないでしょうか。学校が縮小したことで「先生」という職業はほぼなくなったと言っても過言ではないでしょう。誰もが研究会を公益施設で主催し、教え合い学び合えば、「先生」と呼ぶような存在はいないと考えるように変化しました。私もこの国で一つ講座を主催者していますが、皆さんは私のことを「伊東先生」ではなく「伊東さん」と呼んでいます。

2050/8/14

一つ困ったことは、今までの学校の先生たちが一斉に職を失ったことです。市民たちは履歴書に書けないのに学校に行くことがバカバカしくなり、自分たちの力で学ぶようになったので、今では「教える職業」は無用の長物とまで言われています。国が公務員として教員を雇い、誰も聞いてない授業をする仕事は不要だろうと誰もが心の中で思っていたことが確かに正しかったのだと証明されました。同じようにして大学教員の仕事も無くなりましたが、彼らは「先生」ではなく「研究者」に戻っただけでした。(学会や公共の研究機関は残っていますが、誰でも自由に使うことができ、開かれた研究活動が行われています。)

2050/8/19

長久手共和国は、先進国と呼ばれる国の中で唯一大学と大学院を持たない国となりました。OECDの調査では、あらゆる国で軒並み大卒者、大学院卒者、博士号取得者の数が増えている中、長久手共和国の今年の学位取得者は二桁にもなっていません。学習の成果はどんな形をしているのか見ることはできないのに、時間で区切り、単位に変換し、それが溜まったら学位を授与するというプロセスがいかに馬鹿馬鹿しいかを他の国は気づいていないようです。ですから、長久手共和国では学位システムの完全廃止が議題に上がっています。大学と大学院がなくなったことで、研究が発展しなったのではないかと他の国の研究者はよく指摘しますが、むしろその逆の現象が起こっています。大学がなくなったことで、皆が学びに意欲的になり、(研究成果を図ることはそもそも難しいのですが)大学があった頃よりもユニークな研究がなされ、学問は大きく発展しました。

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