「大学に入らなければ、今の自分はいなかった」は本当か?
「もし大学に通っていなかったら、今の自分は本当にいなかったのか」という非常に興味深い問題を先日提起してもらった。大学に通う者は、自分が大学に入学することでどのくらい考え方や生活が変わったのかを経験を持って知っている。人生は偶然の出会いの連続であるから、これまで選択してきたことをなしに今の自分が存在し得ないことは確かに正しいことのように思える。ただ、私が問い直したいのは「大学に入学したからこそ、私は今持っている知識や考え方を学ぶことができたし、大学なしにはそれは絶対に成し遂げられなかった」と考えてしまうことの是非である。私の結論を書いてしまえば、大学がなければ学ぶことはできなかったと考えてしまう状態は、むしろ学ぶ力を奪われているし、大学依存・教師依存であって、かなり危険なように思える。一度こうなってしまえば、何かを学ぼうとしたとき、自分の独力で学ぶのではなく、大学に再入学しようだとか、大学院に入学しようだとか、そのように発想してしまう。大学の用意するカリキュラムを受講することそれ自体やカリキュラムの修了証を手にすること自体が、自らの学びを証明するものだと信じ込むようになるのである。実際は、大学の学位や修了証をもらっただけで、実際は大して学んだことはなかったかもしれないのに。
もっと自分の力を信じれば良いのに〜NO大学 NO LIFE〜
大学に入った自分と入らなかった自分が、全く完全に同じ人間になることはあり得ないと前もって断っておくとしても、大学に入ったからこそ今、自分が学びとった価値観、考え方、知識があるのだと考えることは、同時に「自分は大学がなければ、学ぶことができないような無能だ」と言っているのと同じことだろう。他者の強制的な隷従においてのみ学ぶことができる人のことを「学ぶ力がある人」と呼ぶことはできない。私は大学に行かずとも、今と同じような自分になることができたと心から信じている。もちろん、他者からのスパルタ教育(学校に入ること)がない分、今と同じ考え方に至ることが少々遅かったり、あるいは早かったりするだろうが、タイミングの問題はあれど、学校は私の学びに大した影響を与えていないことを信じている。しかし、"NO大学 NO LIFE"の人々は自分の独学力を信じ切ることができない。自分はいつまでも独力のない無能であり、私の学びには学校通学が不可欠だと宣言してしまう。私はそのような人に、「もっと自信を持って良い」と伝えたい。大学で学ぶことにこそ価値があるという信仰は、誤りである。実際には、大学外でも大学と同等のいわゆるアカデミックな学びをすることは可能である。あるいは、逆に大学よりも遥かに価値のある学びが近場の図書館や喫茶店、公民館でできるのである。もちろん、今の社会でそれをイメージすることは難しいかもしれない。しかし、私は近所の古本屋の店主が、非大卒でありながら博識であることを知っている。彼は学びたいと思った時、大学に通おうとは考えない。なぜなら自分でできることを知っているからである。彼と話すことは、大学で学ぶよりも価値のある学びと考えることも十分可能である。しかし、現代の社会はそれを許さない。彼の古本屋で1日を過ごすことよりも、学校に通うことを是とするからである。このように、インフォーマルな価値ある学びは(まだ少ないかもしれないが)今もすでに地域社会にある。大学に通わずとも、今の自分と同じようになることができる世界線は確かに存在しているのである。これに気づくことができれば、脱学校し、自分の学ぶ力を取り戻すことができると思う。イリッチは、このようなインフォーマルな学びのつながりを「ネットワーク」とか「ラーニングウェブ」と言うように呼んだ。
ネットワークを十分に整えてから、脱学校する?
確かに現段階を鑑みれば、学びのためのネットワークはまだまだ少数であって、不十分すぎるし、学校の代わりとしては頼りなさすぎるという指摘は最もかもしれない。しかし、もしこのネットワークがうまく機能するようになれば、大学など通わずとも容易に学ぶことができるし、大学なしで同じような自分になることは必ずできる。ただ、学校の代わりになるはずのこのネットワークが十分に形成されない理由は、逆説的な言い方ではあるが、学校が存在しているからだろう。私たちはインフォーマルな学びを、学ぶにふさわしい価値あるものだとは考えていない。このブログを読むことだって、大学での授業より価値の低い行為だときっと思っているだろう。ただ、そのような姿勢ではネットワークは発展しようがない。それに価値を感じていないのだから。したがって、大学が存在し続ける限り、我々の思考の中で学びは学校に独占され続け、大学での学びにこそ価値があると信じ続ける。そうなれば、当然ネットワークはできない。だから、最も重要なのはネットワークが発展してたら大学が不要になり、脱学校できると考えることではない。むしろ、学校がある社会において各人が意識的に学校から独立し、自分の力でネットワークをつくって独力で学び、皆が学校は不要な存在であったと気づいた末に学校を廃止することである。要は、ネットワークができたら大学に行く必要がなくなるだろうという考えは手順が全く逆だということである。
大学に入らずとも、今の自分はある!!!
「大学に入らなければ、今の自分はない!」と堂々と宣言する人がいることに、私は非常に驚いた。学校の力を疑うこと、自分自身の力を信じることがこんなにも難しいことだとは思わなかった。大学に通わずとも、同じような自分になることができた道は必ず存在している。そのような世界線は絶対にどこかにある。ただ、大学や教員に教育されなければ、私は学べなかったと心から信じているとすれば、それは「それ自体が、学校の産物である」(『脱学校の社会』p.63)。大学がなければ、今の私はないという人は必ず大学に通った人である。大学に通ったことのない者は、そう言わないかもしれない。学校に通ってしまったから、学校に通うことは不可欠だと考えているだけであって、自分の学校必要論それ自体が学校に通ったことで染み付いた学校の産物なのだろう。大学に入らずとも、今のような自分は必ずいるはずだ!!そんなわけないと言ってしまうな!自分を信じて!
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おまけ〜学校内外の学びを分ける権力性〜
何が学校の中での学びで、何がそうでないのか、何が学校外での学びなのかをどのように分けるのかという指摘は最もである。これはこの議論を友人とし中で受けた反論である。現在も学校と学校外での学びは関係し合っているから、それを簡単に分けることはできないというものである。そして、それを分けるとすれば、それが可能であるというのだということ自体が権力性を持っている。フーコーの思想によく似ていると思った。おそらくイリッチは、学校的かそうでないかを「計画性」で判断していたように思う。偶然的に生じた学びは学校の中で起きたものであっても、それが実際には学校外での学びだ。カリキュラムや教師の想定(教育計画)とは反する形で学習が進むことは、学校的ではない。だから、イリッチは学校内での学びすらも学校的ではないと言っている。
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イリッチを語る時、「学ぶ力」という言葉は使わざるを得ない。能力や学力という言葉は、かなり脆いものであることを自覚しているが、あえて使いたいと思う。
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