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高校「倫理」は意味がいないと思った話

私は高校2年生の1年間を海外留学をしていたために、その際に受けるはずだった倫理の授業を受けないままであった。高校を卒業して以降、哲学や倫理学に関心を持つようになり、いろいろな哲学者の書物を読むようになった。そうすると、私の学んでいる哲学者や思想について、周りはすでに知っているようであったし、なんなら私よりもたくさんの倫理の用語を知っている学生も大勢いた。しかし、私は教科・授業として「倫理」を学んだ人々に違和感を覚えたのである。

受験勉強としての高校「倫理」なんかに意味はない!

最大の問題点は、哲学・倫理を学ぶ形式が「授業」や「受験」になってしまうことである。これは学ぶために学んでいるのではなく、単位取得のために学んだり、学校を卒業するために学んだり、受験競争に勝つために学んでいるのである。当然ながら、このような学校的な学びでは哲学的な発想を現実の課題に結びつけることはないだろう。応用のできない学びに大した意味はない。受験のために倫理を学んだ者は、哲学倫理を学んだつもりになっている。高校「倫理」は、むしろ哲学を学ぶ上で逆効果なのだ。これこそ、哲学者イリッチの批判した学校化した発想に他ならない。カリキュラムを修了すること、哲学の単位を取ることが、哲学を学んだことを意味すると勘違いしているのである。正しくは、高校「倫理」に意味がないというよりも、それが高校の授業という形式によって教授されることで意味を失うのである。

YouTubeの倫理チャンネルの話

昨今は、youtube上で哲学倫理を学ぶことが容易になったし、とても興味深い。もちろん、政治経済や他の「教科」も同様である。ただ、こうしたことを「倫理」を扱うチャンネルには2種類ある。教科としての「倫理」を授業しようとするチャンネルと、「倫理学」を教えるチャンネルである。これらの視聴者の背景も、反応も全く異なったものになっていることが興味深い。また、これらのチャンネル運営者の価値観が全く違うことも面白い。以前、教科としての倫理を授業するチャンネルの講師が「日本の生産性を高める人材を育成する教育をしたい」と発言していたことに、とても驚いた。哲学的には突っ込みどころがかなり多い。まず、人間を「人材」として理解することの是非である。人材という言葉には、人間をモノのように扱うニュアンスがある(これはカントから強い批判を受けるはずなのだが、彼はカントを教えた経験もある)。当然、人材論を語る人が大勢いることはわかるにしても、これを倫理を教えようとする立場の者が安直に使用することに強烈に違和感を持った(大概、倫理学を学んでいる人は人材論を嫌うように思う)。なぜこのようなことになるのかと言えば、「倫理」を教科として理解しているからに他ならない。所詮、教科・授業としての「倫理」に過ぎないのである。

倫理の先生が穴埋めテストをした話

友人の倫理の先生は、試験を穴埋め形式で行ったという話を聞いた。ザ・学校の試験という感じであるが、評価を行うにあたって、教師が正解を既定してしまうこと自体を疑うのが、哲学の役割ではないのか?学校におけるコニュニケーションはかなり不自然なものになる。「今何時ですか?」という問いに対して、生徒が「3時です」と答えれば、普通は「教えてくれてありがとう」というだろう。しかし、学校では「正解」と言うのである。この先生はその枠組みから抜け出せていない。倫理を教える(?)者としては、非常に奇妙である。自分が授業で教える批判が、そのまま自らの行為に降りかかってしまうからである。ここからも学校の病理が伺える。


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