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冒険者の孤独

常にまだ見ぬどこかへ行ってみよう、高み、深みを目指そう、挑戦しよう、というパイオニア精神を持った「冒険者」としての自分の性質が生む孤独について考えている。

パイオニア精神を、それを必要としていない人や状況に対して向け、近くの人を傷つけたり、疲弊させたりする自分の側面がある。
当然、多くの人は自分を疲弊させる人の近くにいたいとは思わないし、自分の居心地のいい、慣れ親しんだ環境で暮らしていたいと思うので、冒険者精神は必然的に孤独を生む。

ただ一緒に体験をシェアして、居心地良く楽しんでいたいだけの人に対して、不確実な、未知の方向へ、リスクをとってもなにか面白いことが起きそうな方向へ動かそう、という欲が出てくる時がある。
同じことの繰り返しだけではすぐに飽きて、次に行きたくなる自分のエゴが抑えられなくなるときがある。

日常生活レベルでも、その癖がよく出る。
「行きつけの店」というのがあまりない。
ずっと昔から一緒にいる友だち、というのも、本当に数少ない。
5年以上何かを続けたことがない。
出来ることなら住む場所も常に転々としていたい。

ただそこにいて、「終わりない日常を楽しむ」というスタイルが、自分の中に受け入れることができないときがある。
なので、大学のサークルに入って、「前の飲み会でした失敗をつまみに、次の飲み会でする失敗を作る」ように見えた飲み会に行かなくなった自分がいた。
どのコミュニティに所属していても、「ああ、いつもの繰り返しが始まったな」と思うと、びっくりするくらいのスピードでそこから離れる動きをする。
そして、恐らく多くの人より物事を捉える抽象度が高いので、他の人にとっては「全然毎回違う」という事象でも「同じ」と捉えてしまうのだろう。

世界に対して、そういうスタンスで向かっている人間は、その使い所や、一緒に冒険する相手を考えなくては、これだけ恵まれた、あるものをただ楽しめば何一つ不自由なく幸せに暮らせる現代において「いい迷惑」になってしまう可能性をはらんでいる。

仕事や、他のことで、「冒険」が上手くできなかったので、手近な人との人間関係の中でそれを発散しようとした時期があった。
それは、求めていない人に対してはすごく迷惑で、息苦しい、暴力的な話だ。

自分は、「すごく考えているね」、「賢いね」と言われることに対して寂しさに似た感情を抱く。
多くは、それを言った人が自分に対して距離を取ろうとしている、と感じるからだ。そして、実際にそうなのだろう。

「あなたが住んでいる、あなたにとっては高次元で、面白い世界は、私に取っては辛く、めんどくさいものに見えて、興味ないけど、すごいね」という距離の取り方。

母の田舎に帰り、親戚皆大卒がいない中で、みんな地元で楽しく生きているように見えて、その人たちの仲間になりたいが、自分にはより広い世界が見えているので、今更それに満足することはできず、自分は更なる未知の場所へと進んでいくしかない、という寂しさ、これに似た感情を味わうときがある。

けど、自分は小さい頃から冒険するのが大好きだ。なので、冒険者である自分は曲げられない。

そういった人間は、現代でどのように生きていけばいいのだろうか。

恐らく、「冒険」自体は孤独に行い、そこで発見した、誰も見たことのない景色や、木の実や、体験を、求めている人に共有する、という生き方が一番、自分と他者を幸せにすることが出来るのだろう。
冒険が孤独でなければ、他者を傷つけてしまう。
だから、自分は率先して孤独の道を選びたい。
途中まで乗っかってきた人が、離れることにも寛容でありたい。

今できる冒険を、自分の愛が向く方向へ、孤独に、ただただ続けていく。

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