とにかく自由でいたい

とにかく自由でいたい。何にも縛られたくない。

幼稚園の頃から、時間割という概念が受け入れられずに、俺は不登園になった。
泣きながら自分を訪問してきた先生へモノを投げ続けた幼少期の俺は、「てめーが勝手に俺がいつ、何をするか、どこへ行くかを決めるな」と言いたかったんだと思う。
「お昼寝の時間」というものも嫌だった。寝る時間を勝手にお前が決めるな。俺が寝たい時に寝る、と思っていた。
「お遊戯」とか、決められた振り付け、決められた歌をみんなで歌う。なんにも「遊戯」じゃねーだろ、と思っていた。

中高校生の時から「キャラ」という概念が鼻についた。
俺が何者であるか、固定したくない。誰にも定義されたくない。
「なんでてめーらが『いじられキャラ』と俺を認定したら、俺はずっとそれを演じなきゃいけないんだ?お前らになんの権利があってそうしているんだ?全員ぶっ殺してえ」と思っていた。

海外に行ったときの、「アジア人」、「日本人」という括りも、鼻についた。
なんで自動的に俺がアニメが好きで、数学ができて、外国語が話せない人間だと規定するんだ?と、他者の扱いに苛立っていた。
なんでいつも「アジア人」という枠組み、「日本人」という枠組みで俺に話しかけるんだ、俺は藤井隆太だ。といつも叫んでいた。
自分が「何人(なにびと)」であるかを、地球上のどこに生まれ、どこに長くいたかによってに定義されたくないと、今でも思っている。

社会では、「〇〇の人」と一言で言える存在の方が、他者へのコンテンツとしては咀嚼しやすく、他人に何か機能を提供してそれで生きていく場合は、自分をそうして加工肉のように成形し、扱いやすくしたほうがいいというのは、さすがの自分でも分かっている。
学生の頃から行われている、「〇〇キャラ」をちゃんと演じ切れる人間、それが他人に価値を提供しやすい人間なのだろう。

そこをすっぱり割り切って、キャラを演じられれば、僕はもっと生きやすいんだろうな、と思いながらも、俺は、無意識的にそれをしたくないと思ってる。
この行為すら、「とにかく自由でいたい自由人キャラ」として回収されてしまうのだろうけれども、重要なのは、演じることと、吐き出すこと、どちらを主体が選択しているかだと思う。

少し前までは、自分が何か一つのことを継続できないのは、何か自分の性格上の本質的な欠陥、または発達障害のようなにかだと思っていた。
でも、最近は、継続ができないのではなくて、継続をすると、必然的について回る「この人は〇〇の人だ」という縛り、そこからとにかく自由でいたいから、継続を「しない」ように動いているんだと思ってる。
恐らく、自分に家族がいて、守るべきものがあれば、それも変わるのだろう。「自分を加工肉のように切り捨て、商品化してでもこの人たちを守りたい」と思う日も、いつか来るのかもしれないし、そうなった時にすっぱりとそちらに舵を切ることができるのも、また「自由」だと思う。

ずっと「よく分からない人」でいたいんだと思う。

自由であること、自分の自我を通すことと、自分の生活の安全や、他者との良好な関係、その天秤を常に測り、綱渡りするように生きていっていると思う。
人によっては、その綱渡り的構造が存在せず、「いや、普通に周りと合わせて生きていくのが幸せでしょ」という人もいて、そういう人は幸せだなあ、と思う。
そういう人が、自分に「君は自分があってカッコいいね」と言ってくれる時、僕は感謝しつつ、話半分でしか聞かない。
本当にその人がそれを「いいこと」だと思っているならば、それを言っている人はそういった行動をしているはずだからだ。

誰にも合わせずに、その結果安定しない生活をして、社会に白い目を向けられ続けるか、うまく折り合いをつけて、自分を加工し、社会から受け入れられるスタイルをするか。
多分、俺の軸足はずっと前者にある。自分のその部分は、ずっと不自由に、変えなくていいと思っている。
そして、時期によってたまに後者にピボットもする。「自由人」が持っている不自由さから自由になるために。

誰にも合わせる気はないし、その結果どんなことになっても、死んでもまあそれが本望、というスタンスなのだと思う。

とにかく自由でいたい。

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