「反脆弱性」講座 21 「人は死ぬ、でも自然は徹底的に生き延びる」
医学の歴史は、実践と思考の対立の物語であり、不透明性のもとでいかに意思決定をするかを綴ったものです。中世まで、医者は哲学者でもあり、かれらは医学と哲学の中間に立っていました。
医学的な手法に頼るべきなのは、健康上のメリットがとても大きく、どう見ても潜在的な被害を上回る場合だけです。これは、アリストテレス的手法でなく、タレス的手法です。つまり、知識ではなくペイオフ(利得または損失)に基づいて意思決定を行うわけです。
これらのケースでは、医療行為に正の非対称性(凸効果)が存在するので、脆さが生じる可能性は低いのです。一方、不快感をなくす治療のように、利益が小さい場合、私たちはおおいに騙されている可能性があります。つまり、負の凸効果に陥るわけです。
この問題を認識論的な視点にも拡大し、何を証拠とみなすべきかを検討していきます。私たちは、証拠の欠如に注目することもあれば、証拠の存在に注目することもあります。追認的になることもあれば、そうでないこともあります。すべてはリスク次第なのです。
たとえば、「タバコは有害だなんて証拠はあるのかい?」という質問を考えてみましょう。この「証拠はあるのか?」という誤り、つまり「害の証拠がないこと」を「害がないことの証拠」と勘違いするのは、「病気の証拠がないこと」を「病気でないことの証う拠」と誤解するのに似ています。
また、非直線形性のものは、「有害である」とか「有益である」とかいう単純な命題も、容量次第だということを注意する必要があります。
医師たちは一般的に、愚かな合理主義、干渉主義、何かしなかればという欲求、人間の方が自然より賢いという間違い、見えないものの軽視、などに陥りやすいのです。専門家や臨床医が正しいと信じている物事の多くが実際には真実でないく、経験的証拠と一致しないという研究結果もあります。
大事なことは、この経験的証拠の立証責任は医師の側にあるとうことなのです。母なる自然が人間の体にインプットした反応に対して、何らかの処置をしようとしている以上、その人間の判断の方が正しいという経験的証拠や統計的な証拠をもって立証する必要があるということです。
人間の作った脂肪である、トランス脂肪はバターと比べて便利だったので広く使われたが、今日では、心臓病や心臓血管の問題を引き起こすものとして、広く禁止されています。また、サリドマイドは、妊娠女性のつわりを和らげるための薬だったが、先天性欠損を引き起こしました。
医原病の原理として、これらのパターンからわかることは、一般的に費用対便益の状況のひとつである医原病は「利益は小さくて明確だが、代償は大きく、潜伏していて遅れてやってくる」という危険な状態から生まれると言えます。
医原病のもう1つの原理は、直線形的でないということです。たとえば、血圧が正常値よりちょっと高い場合、ある薬が効果をもたらす確率は5.6%しかないが、血圧が「高い」または「深刻」な場合は、効果をもたらす確率は、それぞれ26%と72%に跳ね上がります。つまり、治療の効果は症状に対して凸なのです(効果は加速度的に上昇する)。従い、私たちは重い症状に専念し、それほど重症でない患者は無視すべきなのです。
医学会はこれまで、この医原病に対する効果の非直線形性をモデル化していないし、意思決定に確率論を取りいれている論文もありません。リスクさえが直線形的に推定されているため、過小評価と過大評価が生じてリスクを間違って計算することになります。
製薬会社は、薬を売るために、健康な人たちの中から病気を探し出して、医師に過剰処方させようとしています。たとえば、血圧の正常な数値の上限の部分を処方の対象にすべく分類を見直す(「正常」ではなく「前高血圧」に変える)ことをしています。事実、製薬会社は、医師の干渉主義につけこんでいると言えます。
医学は長い間、人々を欺いてきました。1940年~50年代、多くの若者が、にきび、胸腺肥大、扁桃炎、頭皮白癬、母斑の治療に、放射線を使用していました。その結果、甲状腺腫などの合併症に加えて、この放射線治療を受けた患者の約7%が20年~40年後に甲状腺がんを発症したのです。
スタチンという製剤は、血中コレステロールを下げる薬ですが、非対称性が存在します。あまり重篤でない患者はスタチンで害を蒙る可能性があるので、薬のメリットはほとんどないかまったくないのです。
現代の手術は、麻酔のおかげでずいぶんお手軽になっています。たとえば、坐骨神経痛の治療のための腰の手術は、無駄なケースが多いだけでなく、6年後には、平均的に見ると手術をしてもしなくても結果は同じという証拠もあります。手術には麻酔による脳障害、医療ミス、院内感染などのリスクがあるので、一定の潜在的デメリットが存在します。ただし、医師は儲けが大きいので手術をするわけです。
進化とは、自発的で凸な寄せ集めや試行錯誤によって進んでいくものです。それゆえ本質的に頑健なシステムなのです。つまり、継続的で、反復的で、局所的な間違いが起こるおかげで、正の凸型の利得を得ることができるわけです。
ところが、人間がトップダウン型で科学を通じてしてきたことは、まるきり反対で、負の凸効果をもたらす干渉なのです。つまり、巨大な潜在的損失のリスクを負う代わりに、ちょっとした利益を得るのです。しかも、私たちは被害が起きてからようやくそのリスクを理解するが、また同じ間違いを繰り返してしまうのです。
自然界に人間の理解できないものがあるとしたら、人間の理解を越えた深い意味がある可能性が高いと言えます。タレブ氏は、母なる自然がすることは、正しくないと証明されるまでは正しい、と言います。なぜなら、自然ほど「統計的に有意」なものはありません。母なる自然は、膨大な経験をしてきた歴史があり、幾多のブラックスワン的な事象を切り抜けてきたのです。だから、自然を否定するには、人間の側に相当説得力のある根拠が必要なのです。
母なる自然を構成する要素は、システム全体を生存させるような形で、相互作用の仕方を調整してきました。数百万年の時を経てできあがったのは、堅牢性、反脆弱性、局所的な脆弱性の微妙な組み合わせです。自然全体がうまく機能するために、局所的なところで犠牲が払われます。たとえば、人間の脆さと引き換えに、遺伝子はどんどん適用度を高めて生存を手に入れるわけなのです。
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