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イブン・ルシュドの知性論
井筒俊彦『イスラーム思想史』(中公文庫)を読んだ。本書はイスラームの思想史を思弁神学、神秘主義、スコラ哲学との三潮流にわけて概説し、巻末にバスターミーとインド思想との関わりを研究した論文「TAT TVAM ASI(汝はそれなり)」を併録する。
通常、スコラ哲学とは中世ヨーロッパの学校で研究されたキリスト教神学を意味する。だが井筒はイスラームにおける「ギリシャ哲学の影響の下に発達した独特の哲学」(『イスラーム思想史』218頁)、または「ギリシア哲学をイスラーム的コンテクストにおいて一神教的な教義、あるいは一神教的信仰に適合したような形で展開したもの」(『イスラーム哲学の原像』15-16頁〔岩波新書〕)という意味でスコラ哲学という言葉を用いているので留意されたい。
このイスラームのスコラ哲学を東方と西方とに分けて、本書の思想史は四部構成をなす。この中から本稿ではイスラームの知性論を主題とし、特に西方スコラ哲学におけるイブン・ルシュドの知性論に関して、本書を参考にしながら学習内容をまとめようと思う。
1.能動的知性の諸解釈
イブン・ルシュド(ラテン名アヴェロエス、12世紀コルドバの哲学者)の知性論は知性単一説として知られ、西洋哲学史におけるラテン・アヴェロエス主義の文脈でその学説を知る方もいるかもしれない。簡単にいえば、知性単一説とは「個人個人で別な知性というものはない、ただ在るものは唯一同一な知性のみで、個々の人間の知性は要するにこの唯一同一な普遍的知性が全ての個人の裡に顕現したものに過ぎないという説」である(『イスラーム思想史』359頁)。つまり全然簡単な話ではない。
たとえば「あの人は頭がいい」とか「あの人は頭がわるい」とか、そういったことを私たちは当り前のように口にする。これは人それぞれが知性を有しており、その程度には差があるという認識を前提とした発言である。なにも難しい話ではないように思えるが、こうした「人それぞれの知性」を知性単一説は否定する。すなわち「優れた知性」や「劣った知性」などは存在せず、ただ一つの知性があり、人によって顕われ方が違うと考えるのである。
中々に奇異な学説であるが、そもそもイブン・ルシュドの知性単一説はアリストテレスの『形而上学』および『霊魂論』への注釈において展開されたものである。それならば、アリストテレスも知性単一説を主張していたのかというと、そういうわけでもない。この議論の複雑さは、イブン・ルシュドの解釈がアフロディシアスのアレクサンドロス(2~3世紀アテナイの哲学者)とテミスティオス(4世紀コンスタンティノープルの修辞学者、哲学者)のアリストテレス解釈を前提としている点にある。
少しずつ考えていこう。まず『霊魂論』において、アリストテレスは知性(nous)を霊魂における思惟能力に属するものと考えている。そこで、知性が単なる思惟能力(可能態)から実際の思惟活動(現実態)となるには何が必要となるのか、その原因が問題となる。言い換えれば、これは知識をもっている人が知識を使っている人になるには何が必要なのかという問題である。
この問題をアリストテレスは色と光との関係から類比的に考えた。色は暗闇の中にあっては見ることができない。闇の中の色とは見えうるものであるが、実際に見えているわけではない。色が実際に見えるものとなるのは光の中においてである。この意味において、光とは可能的な色を現実的な色に作りなす(poiein)ものである。そこで知性においても、さながら色に対する光のように、思惟能力を現実の思惟活動にさせる知性が想定される。この知性をアリストテレスは非受動的(apathēs)であると考えた。
アリストテレスの考えた知性の非受動性は、出隆によればストア派以降poiētikos nousという一つの術語となる(『アリストテレス哲学入門』256頁〔岩波書店〕)。これがラテン語ではintellectus agensと訳され、日本語では能動的知性と訳される。
さて、この能動的知性を神と同一視したのが先述のアレクサンドロスである。神と聞くと突拍子もない話に思えるが、これはアレクサンドロスが勝手な解釈を述べているのではない。というのも『霊魂論』における非受動的な知性とは常に現実態にある永遠で不死なるものと考えられており、これに対して『形而上学』における神とは、他からの影響を一切被らずに永遠的な思惟活動を行う不動の動者(kinoun akinēton)と考えられている。ゆえに、アレクサンドロスにおける能動的知性と神との同一視は非受動性、永遠性、常に現実態にあるという点に根拠をもつと考えられる。
そうすると、神と比較した場合の人間の知性とはいかなるものだろうか。アレクサンドロスの考えでは、人間の知性は肉体の影響を被る受動的知性(nous pathētikos)に限定されたものであり、この知性は肉体と共に滅びるとされた。つまり、アレクサンドロスにおいて人間霊魂の不死性は否定される。
人間の能動的知性を認めなかったアレクサンドロスに対して、テミスティオスは受動的知性と能動的知性との両方を人間の有する知性として認めた。だが能動的知性に関しては人間が個人個人で所有しているのではなく、万人に共通するただ一つのものとして考えていたようである。ここにただ一つのものとしての普遍知と、感覚的に多様な個別認識という「一と多」の構図が見出される。ゆえに、テミスティオスは「一」を能動的知性に、「多」を受動的知性に配置したと考えておこう。
2.受動的知性から質料的知性へ
能動的知性の唯一性という話になると、いよいよ知性単一説に近づいてきた風情がある。ここからはイブン・ルシュドが先行学説をどのように継承し、その独自性がどこにあるのかを考えていこう。イブン・ルシュドの知性論に関して、井筒は以下のように解説する。
問題の中心はアレクサンドロスの「受動的知性」νοῦς παθητικόςにある。この受動的知性がすなわちイスラーム哲学にいわゆる「可能的知性(潜勢態における知性)」であり、それがイブン・ルシドの「質料的知性」となるものであるが、併しその内面的意義に至っては相当の違いがある。
「可能的知性」というのはイスラーム哲学における知性の四分法に基づくものであり、その分類はキンディー(9世紀バグダードの哲学者)に由来する。これは知性を「能動的知性」「可能態における知性」「獲得された知性」「現勢態における知性」の四つに分類する考え方であり、キンディー自身はこの分類をアリストテレスによるものと考えていた(232頁)。余談だが、このような四区分をアリストテレスは設けていない。これは当時のイスラーム世界におけるギリシア哲学研究が多くの偽書や、異なる学説(新プラトン主義や新ピタゴラス主義)の交雑の下で行われていたという事情を鑑みるべきであろう。
さて、可能的知性についてであるが、ここではファーラービー(9~10世紀バグダードの哲学者)の説を参照してその意味を確認しよう。
前のキンディーに現れた知性四分法は、ファーラービーに踏襲されている。すなわち彼によれば、人間の精神には子どもの時から知性が存在する。但しそれは、そのまま活動し得るのではなく、単に可能態にある(bi-al-qūwah)のみで、これが現勢態における(bi-al-f'l)知性となって活動するには感覚と表象とによる経験を経なければならぬ。
つまり、可能的知性とは人間が子どもの時から有しているもの、生まれながらの知性である。これが現実の思惟活動となるには「感覚と表象とによる経験」が必要となる。更にファーラービーは知性における可能態から現勢態への移行が、単なる人間の意識的努力のみによって実現するのではなく、「超人間的な霊力」(同頁)によってこそ可能になると考える。この「超人間的な霊力」がファーラービーにおける能動的知性である。
ここで考えられている可能的知性とは自ら形相を作りだすような定立作用とは考えられておらず、能動的知性に触発されて現実の思惟活動となるものと考えられている。この意味で、可能的知性とは受動的であり、形相を作りだす思惟活動に対しては質料的である。
知性における可能的、受動的、質料的という側面を見てきたが、先述の通りアレクサンドロスは受動的知性のみを人間に認め、それが可滅的なものであると考えていた。イブン・ルシュドはこうした受動的・可能的知性からもう一歩現実態の側へ近づいた知性として質料的知性を定義している。曰く、質料的知性とは「受動的ではなくて、むしろ混淆した知性である(intellectus materialis non est passives, sed immistus)」(360頁)。
一度イブン・ルシュドの質料形相論を簡潔に説明しておこう。その特徴は質料における形相の潜勢的内在を主張する点にある。質料とは「形相を容れる一種の容器として、ありとあらゆる形相を始めから潜勢的可能的に含有しているのであって、形相は質料に対して外部から賦与される何か新しいものではない」(356頁)。そして、質料に潜在していた形相が現勢的になる、顕在的になることが現実における存在者の在り方であり、彼はこれを創造とみなしている。
翻って質料的知性についてであるが、混淆した知性とみなされている質料的知性はあらゆる形相を潜勢的に含有しているという意味において混淆している。この場合の形相は現象的存在者における個別的形相ではなく知的形相とみるべきだろう。
この混淆から形相を有した思惟活動として現勢態に移るには能動的知性が必要となる。だが、質料的知性は能動的知性に対して単に受動的であるのではない。言い換えれば、能動的知性が質料的知性に外在する形相を一方的に賦与しているのではない。質料的知性は予め形相を潜在させており、その内的発露として知性は現勢態へと転化する。
井筒は光の比喩を用いて解説しており(360頁)、これはさながら光源から照射された光がプリズムを透過して視認可能な色をもつが如くである。光源を能動的知性、プリズムを質料的知性、色を現勢態における知性と解せばよいだろう。色の見え方としては多様であっても、それは本源的には同一で数的にも一つの光である。知性においては能動的知性によって質料的知性が形相を有した現勢態における知性へと転化すると考えられ、これら三つの知性は同一であり、単一であるとみなされるのである。
……まだ上手に理解できた気がしないが、私の受動的知性が滅びかけている。一先ず今回は知性を能動的、可能的、現勢的という異なる側面から眺めながら、それらを一つの知性と考えるのがイブン・ルシュドの知性単一説であると結論付けよう。
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今回読んだ『イスラーム思想史』は思想史の本であるが、「思想史」と銘打たれた本は「哲学史」の本よりもカバーする範囲が広い。たとえば「仏教思想史」や「キリスト教思想史」といった本は、宗教思想を扱いながら哲学思想をも取り扱う。そしてキリスト教とイスラーム教との場合、思想史的発展の背後には宗教と哲学との緊張関係が原動力としてあるように思う。
これが哲学史とはまた趣の異なる思想史の味わいであるだろう。私はなんとなく「すごい哲学者」のイメージはつくのだが、「すごい宗教家」と聞くとピンとこない。だが思想史の本を読むと「すごい宗教家」がボンボン出てくる。そしてこうした人たちがしばしば哲学者を圧倒するのだから面白い。そうすると、仕返しとばかりにまた別のすごい哲学者が出てくるのであるが。
本稿は哲学と宗教との関係については論じられなかったが、こうしたある種のダイナミズムとして『イスラーム思想史』も読むことができるだろう。内容的には私の習熟度より上の本だったので、次はもう少し入門的な本を探そうと思う。