語り場創作#1『アメリカンビューティー』
美しいものを一気に、それも大量に見てしまうと
私の心臓は風船のように破裂しそうになる。
『アメリカンビューティー』より
味噌汁バーは清潔である。名前からはイメージしづらいほど小洒落てすらいる。加藤栄子にとって、入る店が清潔であることは何よりも大切なことだった。どれだけ酔っていても、気分が良くても、夜が更けていても、清潔な場所以外は許すことができなかった。しかしながらそれは、彼女の生理的な問題であって、それ以上語るべき逸話を含まない事情である。とにかく味噌汁バーは清潔で、それが栄子に好印象を与えた。
「あら、若い子なんて珍しい」
カウンターに一人で座っている女が栄子に声をかける。栄子はまだ店に入った直後で、初見の店内をどうにか咀嚼しているばかりだった。
「いやいや、最近は若い子も来るようになってるんですよ、ウチ。それに、貴方だって充分お若いでしょう」
栄子がカウンターの女に返事をする前に、女の正面にいる店主らしい男が反論を控えめに添えた。そう言う店主の方も、充分若く見えた。
あらそう、とでも言いたげに女が右手に持っている木製茶碗をひらひらと揺らす。女の耳元には赤い宝石が燦燦と輝いている。
「こんばんわ」と栄子が二人に言う。それと同時に、入り口からすぐ近くのカウンター席に座った。女からは二つ席が空いている。
「こんばんわ」と女が返す。栄子の方をちらりと見ただけで、そのあとは茶碗へ視線を落としてしまった。
「はじめまして、ですね?」と店主は栄子に尋ねた。
はい、と短く返事をしながら栄子は店をよくよく観察しようと試みた。しかし店主との会話の途中、失礼にならないように気を配った結果詳細を把握することはできなかった。ただ店のおおよその間取りだけは確認できたが、一般的なバーの雰囲気と変わりないようである。女以外にも、何名かの客がいる。もっとも、カウンターに座っているのは女と栄子のみで、栄子自身はその何名かの客に対して背を向ける格好になっていたけれど。
メニュー表に目をやった栄子は、店主に「ゆっくり悩んでくれていいですからね」と言われたものの、どこか急かされた気になって早々にあさり汁を頼んだ。
そのあと、栄子はあさり汁一杯分の話をした。相手は店主であったり、女であったりした。あさり汁一杯分の話というのは、ずいぶんと取り留めのない内容のものだった。もっとも、取り留めのなさにもずいぶんだとか、わずかにだとか、そういう度合いが適用されるのであればのことだが。何であれ、込み入った身の上の話をするにもされるにも、あさり汁一杯では茶碗が足りなかった。
栄子は続けて豚汁を頼んだ。栄子はどちらかといえば保守的な人物だった。赤い宝石を耳元に輝かせる女の方はずっとなめこ汁を飲んでいた。彼女は名前を一乃と言った。一乃という名前は、あさり汁一杯分の情報に含まれている。
「デッド・オールレディ」
一乃がふと呟く。少なくとも栄子には、それがふとした、脈絡のない言葉に聞こえた。
「……オールレディ・デッドではなくて?」と栄子は一乃に尋ねる。
「知らないわよ。英語の文法なんて。ただ――」一乃は栄子の方に顔も向けずに答える。左手で真上、店の天井を指さした。「ただ、これは『デッド・オールレディ』なの」
一乃がこれ、と指さしたのが店内にかかっている楽曲のことであると気づくのに栄子は苦労した。そもそも栄子は味噌汁バーの店内に音楽がかかっていることにその時初めて気づいた。栄子の耳に美しく、生命豊かなジャングルに似て澄んでいるような、重たいような空気を感じるリフレインが聞こえてくる。
「デッド・オールレディ」
栄子はその言葉を口に出してみる。彼女の中では先ほどの一乃の言い方を真似たつもりであったが、実際に耳に聞こえてきた自分の声は、どうも似つかない音のように思えた。音だけでは日本語にして「すでに」という意味の「オールレディ」なのか、あるいは「すべての女性」という意味の「オールレディ」なのか、栄子には判断しかねる部分があった。しかしながら、改めて自分の口に出してその響きを確かめてみると、妙な直感が働いて、おそらく「すでに」という意味の「オールレディ」であると栄子は推量した。
「それが、この曲の名前なんですか?」栄子は一乃に尋ねる。
「ええ。『アメリカンビューティー』って映画、知らない?」一乃が顔を少しだけ栄子の方に向けて言う。
「聞いたことくらいは」と栄子は答える。そして心の中で「たぶん」だとか「そんな気がする」なんて及び腰な言葉を付け加えた。
「そう。その映画の劇伴?っていう言い方でよかったんだっけ?」一乃は言葉の途中で店主に目配せして、確認を取る。店主は静かに頷いて一乃の発言を後押しした。
「映画の劇伴なの。特にこの曲はオープニングのシーンに使われてる」
「詳しいんですね」
「有名なだけ」一乃はそう言うと、口元でぐいっとなめこ汁の入った茶碗を傾ける。隙間から、小ぶりの豆腐が一乃の唇に一度引っかかった後口の中へ吸い込まれていくのが見えた。それを一乃は慎重にかみ砕いた。
「まったく。なんでこんな時間に、こんなもの飲んでるのかしら。ヨーロッパじゃ、シンデレラが王子様と舞踏会してるような時間よ」一乃が言う。
「シンデレラなら15分も前に帰ったよ」間を置かずに店主が言った。
ふんっと一乃は鼻から息を吐いて黙ってしまった。店内に未だ流れている『Dead Already』をじっくり聴いている様子だった。
「その映画って、どんな映画なんですか」栄子は一乃に尋ねる。一応、店の曲が『Dead Already』から別の曲へ切り替わるまで待って尋ねた。
「……オヤジが女子高生にワンチャン狙ってあーだのこーだのって話」
「そのオヤジって?」
「妻子持ち。歳は確か40とかそのくらい?」
「……ちょっと、気持ち悪いですね」
「気持ち悪いよ。たぶん、あなたが想像してる2割増しくらいには。ケビンスペイシーってやっぱりすごい役者よね」割りばしでなめこをつつきながら一乃が言う。栄子は何も言わなかった。一乃が何か言葉を続けるような気がしたのである。
「みんな、気持ち悪いよ。オヤジほどでもないけど。オヤジの奥さんも娘さんも、ワンチャン狙われる女子高生も、隣人さんも、他にもみーんな。ああはなりたくないかもね」やはり一乃が続けて言った。それでも栄子は言葉を返さなかった。一乃の言葉がさらに続くのを待った。それを待つ時間は、栄子に少々長く感じられた。
「……でも、綺麗なんだよね。愛おしいっていうか。愛おしいなんて、私普段使わないから、そんなこと言ってると、よく知らない親戚とご飯食べてる時みたいな気分にされちゃうけど」
「好きなんですか、その映画?」栄子には結局、そんなコイントスのような投げかけしかできなかった。何か話さなければと思ったが、何を話せばよいかもうひとつ栄子にはわからない。
「好きなんだと思うよ。簡単に認めたくはないんだけど」一乃がそう言ってからまた、沈黙が挟まる。
「すべてのドラマがドラマチックである必要はない」沈黙の後、一乃が負け惜しみみたいな声を出した。
「それは、どこかの監督の言葉とか?」栄子はその格言めいた響きに問いかける。すると一乃はくすっと微笑みながら頭をふるふると横に揺らした。
「誰のでもないよ。強いて言うなら私の教訓なの」
それから、ぽつぽつ静かな雨が始めたみたいに一乃は『アメリカンビューティー』について止めどなく、しかしながらゆっくりと話した。栄子に向けて語りかけているという風な口ぶりでもないようだった。どちらかといえばそれは栄子に向けてではなくこの味噌汁バーの空気に染み入るように響いた。
「結局のところ、あの映画はみーんな誰かしらに共感できるんだよ。あれは間違いなく、人間のドラマだから。ヒューマンドラマとはつくづくよく言ったものだよね。家に学校に会社、出てくる人も場所もみーんな、ドラマチックなことなんてひとつもないの。喜劇的でも悲劇的でもない。あるのはただ退屈しない普通」
「退屈しない普通」栄子は一乃の言葉を繰り返してみる。栄子のひとつの癖みたいなものだった。話している相手の、大事に思う言葉を自分でも口に出してみる。
「『アメリカンビューティー』っていうくらいだから、確かにアメリカ特有の美意識みたいなものが要素としてあるんだけど、そこは正直ある意味では大したことじゃないと思うんだよね。いや、やっぱりあるいは向こうの人たちにはそれも大事なことなのかもしれないけれど。それよりも人類みんなが仲良く共有共感できる何かが――それこそきっと愛おしさみたいなものが――あの映画には詰まっているんだと思う。そうでしょ?」
一乃は最後に一度だけ、正面にいる店主に反応を求めた。店主の方は肩をすくめながら微笑んで返して見せた。栄子にはそれが見たこともないほど優しい肯定に見えた。
「あなた、恋人はいる?」一乃が栄子に尋ねる。手元のなめこ汁は空になっていた。
「恋人はいないです」と栄子は答える。それは正直な答えだった。
「そう。幸運なことね」一乃が言う。それからまた一乃が続ける。
「お父さんは?」
「……はい?」栄子は聞き返す。
「お父さんとは、仲良くしてる?」一乃はまっすぐに栄子を見た。栄子の方はそれまで向けていた視線を一乃からそらした。そしてその問いに対して雄弁な沈黙で返す。
「そう」と一乃はただ一言、吐息を多く含ませて言った。
「恥ずかしいんですよ、あの人。すっごくみっともない」事細かに愚痴を言うつもりは栄子になかったが、それだけは口からあふれ出た本音だった。
一乃はそれについて何か意見を述べることもせず、店主になめこ汁のおかわりを頼んだ。そうしてから深いため息をついた。遠い過去から運ばれてきたような、重たい息だった。
「嫌なこと思い出しちゃった」そう言って、一乃は栄子に体を向ける。
「みっともないことばっかり目についちゃって、ほんと嫌になるよね。美しいものに限って普通の中にさりげなくあったりするし。もっとバロック式の建築物みたいに、どーんとアピールしてくれてもいいのにさ」一乃が言う。
栄子はバロック建築について考えてみる。しかしイタリアのサンピエトロ大聖堂以外に具体的な名前を思い浮かべることができなかった。
「私の言ってること、さっきからよくわからないわよね」ふと一乃が、呆れたように笑った。
「まぁ、正直に言ってしまうと」栄子は遠慮なく答えた。その一乃の笑顔には建前だとか社交辞令だとか、そういうものを引っ張りはがしてしまう力があった。
しかしそう答えながらも栄子は考える。一乃の言っていることをわかりたいと思う。みっともないことと美しいことについて理解したいと思う。恥ずかしい普通について理解したいと思う。父親についてもあるいは、理解したいと思っているのかもしれない。
「いつかきっとわかるわよ」一乃が栄子に言う。
空になった豚汁の茶碗を何気なく見て栄子は、そういえば誰かの好物が豚汁だったななどと、そんなことを思った。