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ホン雑記848「夢を動詞に」

いつどこで見かけたかわからんのだけど、
「夢は動詞で考えるといい。それが一番自分の本当の目的に近い」
という発想を知った。

あぁ、糸井重里氏が言ってたような気がする。確証はない。


たとえばオレだったら、何度も望んだことが、
「モテたい」
「金持ちになりたい」
「音楽で食べていきたい」
「いや、才能はそもそもあるんで、音楽か言葉で食べられるような継続的な行動力がほしい。ライブめんどくさいとか思わない、最低限普通並みの精神がほしい」
「めんどくさいの治したい」
ぐらいだろうか。

でもそれは本人が口グセというか、ヘタしたら思考グセのようなものになっていて、そこまで考えてモノ言ってないってのはあるんだよね。「金持ちになりたい」なんてのはその最たるもんだろう。
金は他のものと交換しないと何の価値もない。ケツ拭く紙ぐらいにはなるけど、それだったらケツ拭く紙のほうが遥かにいい。ケツにとってな。

そこで動詞で考えるといいよと、いうのだな。
「歌いたい」とか、「感動させたい(動詞かどうかは微妙なところだが。「認められたい」のほうが近いか)」、「チヤホヤされたい」とか。
で、ここでも「感動させ(れ)たい」とか「チヤホヤされたい」ってのが微妙な動詞だと気づいてくる。ようは人のリアクションへの期待なんだよな、そっちのほうは。「歌いたい」っていう動詞に比べて純度が低いわな。

で、そもそも『神との対話』シリーズのニール・ドナルド・ウォルシュ氏に影響を受けて、動詞で考えるっていうのはやってたことがあった。
彼に最も教わった動詞はおそらく、
「許す」
だ。オレの魂的なものがあるとするなら、これをやりたくてニュニュッと世に出てきた感じがしないこともない。でもたぶんオレには無理だし、何よりこれを使命にはしたくない。キツすぎる。
許さない、ということが宇宙には必要な気もするし、もしやる人(魂)があったとしてもそれはオレではない感じがする。キツすぎる。
もうこのへんは自分でも何を言うとんのかわからん。

んで、自分ではこれが一番望んでることじゃないか? っていうのに、
「讃える」
がある。いまんとこオレはこれっぽいと思ってた。が、どこか言葉自体に上から目線イメージがある気がする。いや、別にそんなこともないんだよ? 言葉の話じゃなくて、胸に去来する行動のイメージの話なんで、「称賛」という言葉に引っ張られて「それは一般的に上の立場のほうがやることだしなぁ」なんて思う必要はないわけだ。
「すばらしい!」と思わず思う思いが(ややこしな)、「讃える」の内実であるんだろうから。

でも昨日ふとね、もうちょい近い動詞がホントにふとね、浮かんだのよね。それが、
「寿ぐ」
だ。あぁ、「ことほぐ」と読みまする。意味は、
「言葉によって祝賀すること」
とある。

あぁ、どうやらこれが近いぞ、と、思ったりするんだな。ワテには。これをオレの魂は望んでるんじゃないかと。
そしてこれが本当に本当の目的なら、寿いだ相手の寿がれた(こんな言葉あるのか)ことによる喜ぶ姿を見ることも、ましてやオレが寿ぎましたよと相手に伝わってほしいということも、望んでしまっては動詞の純度が下がるんだなぁ。
それを望んでしまっては、プレゼントを渡した相手にプレゼントを渡したオレを褒めてくれという、結局オレが褒められたいというだけの話やんけ、ってことになっちまうからだ。

ま、とはいえ、このへんは厳密に厳しく分けすぎる必要もないとは思うんだけどね。
個と全の概念が繋がってるほうが健全な生命システムなのであれば、何かをする時に自分が喜んだって全然いいわけだしさ。

というかそもそも、そいつが喜びたいことを通じて、天はそいつに何らかの行動をセレクトさせるんだろうから、当然全然いいのか。
うん、そうだな。


選ぶ道は「寿ぐ」。
その上でやることは「音楽」と「懐かしくさせる」あたりなんだろうか、と思ったりする今日この頃。
そんなところが本当の仕事になれば言うことないなぁ。




p.s.
「許す」のがオレにはキツすぎるっていう理由はここに書いてある。書いてあるってオレが書いたんじゃないけど。ニール氏のいわんとしてることを子供向けにした本のたぶん全文。




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【今日の過去note】




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仲大輔
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