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雑記1122「なんだかひと仕事した気でいるところ」
いやー疲れた。
昨日アップした未発表曲「とある恋の歌」の録音が疲れた。
ドラクエ2の戦闘曲なんか80TAKEぐらい行った。
「とある~」は3TAKE目のをOKにした。それでも昨日のほうが圧倒的に疲れた。
1曲6分半もあるってのがデカいかもしれない。それでいて歌詞の変遷が一番多かった曲ってのもある。
つまり歌詞の内容が全然頭に入ってないのだな。歌詞を見ながらなんだけどそれでも間違えそうになる。
1~3番の文字数もそれぞれ全然違うんで、主旋律もそれぞれ過去イチで違う。歌い方もわからんようになる。
で、それらがなかなか入っていかない。老化だろうか。どうも脳がシャキッとしてない。
そこにくわえて弾き語りなのである。頭ガタガタ言うぜよこれは。だから弾いてる音数も昨日のは少ない。鍵盤に脳リソース持ってかれると歌が「あうあう~」になるからね。これは恥ずかしい。
ちなみにアカペラだと歌が1.3倍ぐらいの上手さにはなる。こういう言い訳をするところもまた、恥ずかしいね。
だから6分半の間ずーっと、
(ミスるなよ~、ミスるなよ~)
思いながらやってるわけで、これがまぁ苦痛ったらない。全然音苦しちゃってる。
昔みたいにヘタな部分だけ録りなおしたいなぁ(その機材もいまはないんだが)なんて思っちゃうんだけど、いやいや、そんなことをしてたらライブで使い物にならんやんかと。
本当は歌詞カード無しが理想だし(最低限?)、伴奏ももっと凝りたいわけですよ。
ということで、もうこれは単純に練習不足だなと思い至りまして。
練習? うーん、それよりももっと深いところな気がする。そんなプラクティスプラクティスした問題じゃないような。
自作へのネグレクトって感じなんだろな。
小説『あん』がもう30言語ほどに訳されてるその著者のドリアン助川氏は、また別の短編著作の朗読ライブもされている。
カフェで、ラーメン屋で、一般家庭の庭先で。
もういまでは食うことにはそうそう困ってないはずのドリアンさんだけど(というか朗読ライブは足が出るらしいが)、やっぱり(当たり前なんだが)そういうことじゃないんだよね。
我が子をひとりでも多くの人のもとに届けたくてしょうがないんだろう。
が、さっきたまたま見た彼のフェイスブックでは、また違うことも書かれていた。
「紡いだ言葉は、誰かに届けるためにあるのだろうか」と。
本当に尊いコミュニケーションは、自分のためにあるのではないか。自分に言葉を届けられているか、と。
これは深いなぁと思った。そして逆説的ではあるけど、精一杯自分のために届けようとした言葉は、精神論じゃなく、物理的に他者に届きはじめる気もする。なんか人間ってそうなってる気がする。同時って言うか。人間だけじゃなくて宇宙全部。
「とある恋の歌」の最後は「いつか君に伝われば…」と切なる願いで終わってるんだけど、少なくともオレにはこの物語は痛いほど伝わってるし、同時にオレにもまだまだ伝わってない部分もあるんだろう。
その伝わらない代は、切なさでもあり、愉悦でもある。
歳を取ることの楽しみはこういうとこにも激しくあるなぁ。
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