ホン雑記 Vol.272「仏門DIY」
風邪ではない風邪気味っぽいのをひき続けたせいで、とうとう朝ジョグが止まってしまった。あー、とうとうだ。ま、いいか。
自分であんなに強く決めたことを反故にして、もうちょっとうなだれると思ったけどそうでもないのは、代わりに音楽熱が出て来たせいだろう。
お歌とお指の練習は、やるまでは少し重い腰を上げてるイメージが付きまとうけど、このふたつはホント麻薬成分ある。
昨日もVドラッグの駐車場でチョロっと歌ってみたら、止まんなくなっちゃって小1時間歌っていた。なんとなく分かってきたけど、テキトーなとこでテキトーに始めるのがいいみたいだ。
「やるぞ!」はホントにダメ。これ46年生きててやっと気づいた感ある。「あーーー、ホントにやりたくないことはやんなくていいんだー!」と心から思う。ただこれ、そうは思ってない人はそうは思えないし、それが悪に見える人にはずーっと悪に見えるんだよな。当たり前の話っちゃー当たり前の話なんだけど、これは筆舌に頼りにくい感覚だな。
動物たちも、オレの心臓も、別にそんなに息巻いてないからねー。パチンコ玉のようにどこを通ろうが行き着くとこには行き着くし、チューリップに入ろうが入るまいがそんなことはどーーーだっていいのだ。
と、100%は思えないけど、ここ最近そう思える割合は増えて来た。
これ、自分の郷愁感に影響を受けてるのがハッキリ分かる。過去を見ることはまったく後ろ向きではない。オレはね。オレはってゆーか、ホントはみんなそうだと思うんだけどね。あの茂木健一郎氏もそんなようなこと言ってた。
ま、オレあの人まったく買ってないんで、なんで引き合いに出したんだろうとは思うんだけど。
お歌が麻薬~とか、テキト~ってことをやってたら、いままでまったく興味がなかった民族音楽を聴きたくなっていくつか聴いた。
台湾東部の先住民、ブヌン族の歌「八部合唱」は特に良かった。歌と言っても、数人の男が輪になって基音となるひとつのロングトーンをずーっと出し続ける。その完全五度の音程(ドに対する上のソの間隔)でも声が鳴っている。
ある程度の時間が経つとポルタメント(音程間を滑らかに移動)で半音上げて、全員がその音に少しの時間差で追いつく。
どんどん音程が上がって行く高揚感、最初に半音上げる人との間に生まれる少しの時間の不協和音と、全員が追いついた時のその再調和がキモなんだと思った。
キモとはこの歌の存在の意味であり、それは気持ち良さだろう。なんの気持ち良さかと言えば振動ってことなんだろうなぁ。声帯側の気持ち良さも微妙にあるんだろうけど、やっぱ鼓膜側なんだろうなぁ。
で、この八部合唱、豊作を祈願するために生まれた歌らしい。だいたい昔の音楽はそうか。
やっぱり根源にマイナスがあったのだ。命にかかわる不安があって、それに肉体的な快感によって抗って霧消させる。肉体の快感とは究極、精神に寄りかけた自我を肉体のほうに戻すことで、不安を払い、肉の生活に重きを置かせる。「いま、ここ」に戻させる。
これって、お経と同じ発生原理ではないのかと思っている。飢餓で明日をも生きられないかもしれない恐怖、死別の苦しみは、肉体を振動させることでなんとか平静を保ってきたのではないかと。
そう考えるなら、「ストゥーパを卒塔婆と訳しても意味ない」や「般若波羅蜜多はパンニャーパーラミターだから日本人には意味ない」が、意味のないことだと通る。
意味は字義ではなく、むしろ音のほうにあるのだ。
オレは宗教や坊主が大変に苦手だけど、そういう意味では、救いの法が長年に渡って宗教に乗って現在に届いているとも言える。
ただしその救いの根幹は「自分で発声し続けること、音は自分が気持ち良い音程・音色であること」のほうで、坊主を呼んで経を読んでもらうことではない。
(本質が弱まるというだけで、人に読んでもらうのが無意味とは思わない。それで救われる人は、真に救われている)
ヘンなとこに着地しちゃったけど、天は自ら助くる者を助くってことで。
「ぎゃていぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい」なんて口にするとちょっと幸せになるじゃん?
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