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ホン雑記 Vol.798「走愛性」

ウチの嫁ちゃんとは20代前半の時に職場(パソコンショップ)で出会った。いや、出逢った。いや、邂逅した。


オレの3年後に入って来た後輩にあたる。職場恋愛にあたる。キン肉アタル。
ごめんちゃい。だって言いたくなるじゃーん。この世代だとさー。

で、そこの店長が直属の上司ってことになるわけですわ。オレと嫁の共通の上司でもある。
んで、この上司、とりあえずKさんとしておこう、そのKさんがワテら夫婦の間でたまに話題に出てくる。元気してんのかなーなんて。年3回ぐらいは出てくるんちゃうかな。

でね、昨日散歩して思ったんですよ。これ、すっごいですよ。
いや、オレにとってはだけどさ。いや、きっとみんなにもすごいってば。

もうあの頃から、オレがKさんに出会ってから、四半世紀以上が経つ(また「そんなに!?」思てしもた。たいがい思うからもう書かんとこ思たけど、また想像以上にすんげー思ったんで書いてしもた)わけだけど、こうやってチラホラと一夫妻の脳裏に浮かんでらっしゃるんだよね、Kさん。

1年で辞めてしまった嫁にしたら、たぶんKさんと話した実質の時間はギュッとしたら数時間ぐらいのもんだろう。店長なんで奥で発注してたり事務作業もあったしね。それでも20年以上経ったワテらの脳裏に訪れはるねんな。

いやこれね、
「いまここにもKさん生きてることになるんちゃうのん?」
って。昨日散歩してて思った。


たいがいは死者に対して、生誕の日を祝う。たとえば「モーツァルト生誕250周年記念」なんてふうに。
オレ、これ昔から不思議だったんだ。死んでるのに生まれたとこから数えるのん? ってね。なんとなく死って、あまつさえ芸術家にとってはなおのこと、死の瞬間からのほうがなんかその人がガチッと定着する感じあるやん?なのに一本の数直線を生からはじめて、死からもそのまま続いてるんだったら、なんか意味合いのパンチ弱まらへん? と。
ほれ、「何年度入学」よりも、「何年度卒業」のほうが意味合いのパンチ効いてるやんか。
って、思ってたこともあったのと、Kさんがまだ生きてる(サーチで確認済)ってこともあるのと、そもそも生も死もあまり関係ないやんって思うふしのあるオレが思ったってことが混ざって、「いまここにもKさん生きてることになるんちゃうのん?」にいたった。

うん、わかりにくいね。
つまりですよ、大体の場合は人が死んでからその人を汲もうとするんだな。いやいや、それでいいんです。昨日の「町並みは墓標」でも触れてるけど、他者の死こそが汲みたいと思わせ、生者の力に転換される。
第何シリーズかは忘れたけど、金八先生が黒板に「生」の字の下の横棒を「死」の字の上の横棒に見立てて連ねて、一字として書いたことがある。
その横棒はちょうど地面のようで、その上の「生」は一本の木に、「死」は地中からその「生」を支える根っこのように見えないか、と。
だからこそ、死のエネルギーはとんでもない、次なる生と同等ほどのエネルギーがあるんじゃないか、とは思う。

しかしですよ、これって「生」の中においても十分にできることなんじゃないのか、と思ったんだな。
オレが提唱する「接触不可視の法則」がここにも現れるねぇ。あ~、現れるね~。

かなりややこしい感覚だけど、生者は生者ゆえに、他者が生者であるうちは同じレベル(高低じゃなく次元とか境界とかの感じ?)に居るので、接触してしまっている。見たい対象を眼球に接触させていたらまったく見えないのと同様、認識できないのだ。あ、このへんはもう世迷言に入っております。ごめーんね。
で、対象の他者が死んでから初めて、その人が違う次元に行って初めて、視ることができる。その人の人生を。そしてそれは十中八九の場合素晴らしく感じられ、その人生のいくらかを自分に汲もうとする。ここまでが世迷言のやっと半分。

ということはですよ? 離れてみて、その状態から非接触になってみて初めてわかるということはですよ?
そうなんです。我々の、私のこの人生もまた、死んだ人たちの人生と同じようにどうせ、素晴らしいのであろうということがわかるんです。
で、それがわかってない証拠に、死んでからやっと「あの人の分まで生きよう」と気づきはじめるわけです。あれ、なんで敬語やねん。

だったらよ、生きてるうちから、「死んでから誰かオレの作品を世に知らしめてくれんかなー」などと死による美化および人生の固定化のようなものにしゃらくさくも頼らずに、生きてるうちから、自分自身を無二の作品だと思い、人に接することはしないのかね? そのほうが「伝えたーい! 伝われー!」よりもよほど、人様に人生を汲んでもらえるとは思わんのかね?
と、昨日オレはオレに言われたわけです。


死んで誰かの胸の中に生きるという、どこかで知った概念もいいけど、もちろんそっちを意識するのもいいけど、生きてるうちに誰かに思い出されれば、それは自分が生きてようが死んでようが同じことなんじゃないか。

芸の分野に邁進する人が、おのずと愛のほうに近づくのもわかる気がする。




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【今日の過去曲(Youtubeだと概要欄に歌詞あります)】

鉄道のレールを切り替える装置を転轍器といいます。 少年期、反抗期などの「期」に変えた造語です。
すべてのやりきれない、出しきれない、煮えきらない、諦めきれない人々に捧ぐ。
あなたのレールも「ガチャン」と切り替わる音が聞こえるといいなぁ。




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仲大輔
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