ホン雑記 Vol.150「ひ」
いい歳こいてやる気スイッチを探しているオッサンはいるんだろうか。ここに少なくともひとりいる。
いまのところのNo.1メンター武井壮が、オレと似たような悩み相談に「いまのままでいいと思ってるってことでしょう。俺は絶対イヤだったからね」と煽ってくれるんだけど、まぁおっしゃる通りだよなぁと、ぐうの音も出ず。
それならいっそ夢のほうを忘れてくれよ、オレの脳と魂よ。と、思うこともこれまた不遜な態度に思えてしまう。
まだ20歳ぐらいの頃、最初の勤め先の同期に「絵が描けたり音楽作れたりするのはすごい。自分にはないから羨ましい」と言われたりしたことが、いまだ風前の灯火を絶やさせずにいるのだろうか。
まだ若く、イキりたいだけの時代だった自分は「そんなことを正直に言えるアンタのほうがよっぽどすごいと思うわ」と思っていた。
夏季だけの市民プールの監視員バイトをしてた時も、ひとりとてもお気に入りのオジサンがいた。70代ぐらいだったと思うけど。あまり人に胸襟を開くことのないオレにしては珍しく、いろんなことを話した。
微々たる音楽活動をしていることを話すうちに「苦しい時ほど良い歌詞ができるんですよねぇ」なんてことを告げたら、「いっぱい苦しんでください」と返してくれた。オレはその言葉をいまでも後生大事につかまえている。
会って数日の人間に「苦しんでください」はなかなか言えないことだと思った。自分の想いを汲んでくれたことと、そんなギリギリの言葉が出てくることに、またすごい人だと思わされた。
伝えてくれた人たちは、よもや自分の発した言葉をこんなにも永く胸の内に仕舞っている人間がいるとは思うまい。
夢は誰かに告げた瞬間に、相手の人生を道連れにすると思っているふしがある。相手のほうは忘れていたり、とうの昔に見限ったりしているんだろうが、それはまるでチーズを縦に裂いたまま時間が進むような、ラップが縦に半分裂けたままその片方がもう片方とはぐれてしまうような感覚がある。
故意に詩的に書いたわけじゃないが、そんな感じなのである。そんな感じなので、もう忘れていたり、見限っていたりしてくれると助かる。あんな夢を語らなければ良かったとさえ思う。でも、語らなければこの宝石も手にしていなかった。
なんなんだろうな、この罪悪感は。逆に人がオレにそうしたって、夢なんかついえるものだと知ってるんで、オレは怒ったりしないのにな。
この生まれついての申し訳なさはなんなんだろうな。
「やらないと死ぬこと>やってもやらなくてもいい普遍的な幸せ>どうしてもやりたいこと」
人生の重要度はこんなところだろう。
これはたとえば、「呼吸>仕事や結婚や趣味などの、幸せの代替があるもの>夢」とかになるんだろうけど、後者ほどやらなくていいどうでもいいこととも言える。これではやる気スイッチなど入るわけもない。
でも、脳の中で、間の日々の営みを飛ばして、呼吸と夢を「ひ」の字のようにくっつけてみたら、くっつけ続けられたらどうなんだろう。
そのための糊が焦燥感や罪悪感のような気もする。
あぁ、また言葉好きの悪い癖が出ているなぁ。
作家に自殺者が多いのも分かる気がするわ。