雑記1156「自分探しは自分の中を探すんです」
ヘレン・ケラー自伝を3割ほどまで読み進めたけど、感心しっぱなしだ。
有名なのは「ウォーター」。最初に覚えた、いや、光と音を失う前に微かに覚えていた唯一の言葉。
ただ、原因不明の高熱のダメージで障害を負ったのが1歳7カ月であって、普通の人はその時に自分が話せていた言葉など覚えてないと思うんだよね。
それからいくつもの名詞を覚えて、「歩く」「座る」などの動詞を覚えていくんだけど、「考える」という動詞を知るのには時間がかかった。触れることができない行為だからだ。
ある日、ヘレンは南京玉(ビーズのデカい版)を糸に通して行く時に、間違いがあることに気づく。
たとえば、大きい玉を3個、それから小さい玉を2個、それから大きい玉を3個などと、「考えて」やらなければいけないんだと思う。
そこで傍らのサリバン先生がそのヘレンの状況を察知して、指話によって力強く「それが『考える』なのよ」と教える。ヘレンの額に手を当てながら。
その瞬間稲妻のように、ヘレンはその言葉が「いま自分の頭の中に起こっている働きの名である」ことを悟る。
「考える」は、抽象的観念の中で彼女が認識を持った最初の言葉だ。
そうして「考える」という新たな観念の光に照らして、いくつもの観念を問いかける。
サリバン先生が教えるのに苦労したのは「愛」だった。「それは太陽の光のことですか?」「いいえ」、「この花の香りのこと?」「いいえ」、「仲が良い・好きってこと?」「いいえ」…。「愛は太陽が出てくる前に空にあった雲のようなものです」
「雲にさわることはできないでしょう? それでも雨が降ってくるのはわかるし、暑い日には、花も乾いた大地も雨を喜んでいるのがわかるでしょう? 愛も手で触れることはできません。だけど、愛が注がれる時の優しさを感じることはできます。愛があるから喜びがわいてくるし、遊びたい気持ちも起きるのよ」
そうしてヘレンは美しい真理を掴み取る。
「私の心と他者の心は、それによって見えない糸で結ばれているのだ」と。
これは健常者についても同じかもしれない。いくつもの「愛」のエッセンスを問うてみて、感じてみて初めて、それをなんとなく形づくっていく。
米・英からふたつの博士号を贈られ、当時のアメリカを代表する著名な作家であり教育者であり、40カ国も旅して、福祉の発展に貢献し、政治活動にも力を入れていたという、まさに文字通り「奇跡の人」。
三重苦に呪われた彼女に、なぜそんなことができるのかと思いもしたけど、なるほどとも思った。
「考える」という言葉を覚えた日を認識していて、その抽象的観念を拠り所として「愛」の観念を探ろうとした人などいない。
それどころか、我々は「水」の単語をいつ覚えたのかも認識してない。いつの間にか見えてたり、歩けてたり、話せたりしていた。それを出来た記憶が無い。
だけどヘレンは、自分がやれてきたことの前に自我がすでにあり、そのあとに出来たすべてのことは喜びをもって彼女に迎えられた。
たとえば動詞を覚えた時は、その喜びったらハンパなかったらしい。「私」「動かす」「椅子」などのように、言葉を組み合わせるだけで無限のことがらを言い表せるじゃないか、って思ったって言うんだね。
この喜びは普通の人には無い。出来て当たり前だと思ってるから。
いや、出来て当たり前だとすら思ったこともない。目が見える耳が聞こえるってのは、有り難いなぁと思ったことはあるけど、それはそのことを出来ない人のことを知っていて、比べられるからだ。
盲聾者に何ができて何が出来ず、そして出来た時にはどんな喜びが待っているのかも知らないから考えようもなかった。
言葉を組み合わせて、それを誰かに伝えられることが無上の喜びである者が、作家にならないはずはないよなぁ、と思うオレなのだった。
だからホントね、出来そうか出来そうじゃないか、向いてるか向いてないかなんて探る必要、まっっったくないんだと思う。他人から見たら、自分の「喜び」は見えないんだから。
そのことがらに対する、そいつの喜び方で判断してきやがるんだから(これはホント相当に頭のいい人でもやっちゃってるよなぁって思う。相手のじゃなく、テメーの頭と心でもって判断しちゃうんだな)。
だからやっぱり「好き」ってスンゲーことだよ。
その才能だけは、他人には見えないんだから。
【今月のオリジナルソングさらし】
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