見出し画像

ホン雑記 Vol.553「あれ、書き直したら1700文字もあるぞ」

さてと。やっぱり昨日消えた記事の後半を書きましょかね。コメントで慰めて頂いた皆々様方(そんなにおらん)、ありがとでした。
君と好きな人が百年続きますように(*‘人‘ *)

昨日は2000文字ぐらいが消えて、思い出して半分まで書いて力尽きたんで、タイトル画がクッソ気持ちワリー北斎のバケモノの絵になってしまった。ごめんちゃい。
さぞキモかっただろうことが、いつもの半分ほどの「スキ」数からちゃんと伝わってきていますよ。ごめーんね。ホントは今日の絵になる予定でした。


『怖~い浮世絵』展のあとに観たのは、酒井敦美というアーティストの『光の切り絵』展だった。正直、初北斎に会えたことよりもこちらのほうが印象に残っ…いや、それどころじゃないな、絶品だった。

中でも「一画二驚」の作品群は至高だった。
細かい作り方は調べてないけど、切り貼りしていった和紙の表と裏で違う絵が描かれていて、それに順光を数十秒、絵の裏側から逆光をこれも数十秒サイクルで当てて、2枚の絵が徐々に入れ替わる。

画像1

たとえば、表には「水面に涙を落とす少女」が描かれている。すると徐々に順光と逆光が入れ替わって「涙の落ちた波紋の中に一輪の花が現れる」といった具合。そして、タイトルは『涙の種』だ。
よくぞここまでたどり着いた(なぜエラそう)と思った。表現手段と意味が完全に過不足なくリンクしている。

僭越ながら(僭越なこと言うなよ。すーぐ言う)、オレ的芸術の理想は「王道であり隙間」だ。
ド真っ直ぐに表現を考えた結果、まだ誰も歩んでなかったの? っていう道が至高だ。オレもそんなところに行きたい。

未見の表現方法を使った攻めたい芸術のほとんどは「結局それ、絵か彫刻のほうが意図伝わるよね?」というのが多い。オリジナルへのこだわりという、いらんスパイスだ。
理想の代表ですぐ浮かんだのは、たとえば北斎の「神奈川沖浪裏」か。「鷹の爪」とも称される波頭の表現は至高だ。
他にも、ジョン・ケージの『4分33秒』なんかが浮かぶ。オレ的にはあと1ミリでアウトな可能性もあるほどてらいの感が強いけど、これは名曲だろう。

「ドリルは鉄棒からあの部分だけ鉄を無くしたからドリルの意味が表れるのか!」と一人感嘆したことがある。
ドリルは棒に螺旋の鉄の刃を付け足して作るわけでは当然ない。ドリル径の鉄の棒から、溝の部分を削り出して作る。「無い部分」を作ったからドリルなのだ(しかもそのドリルは「穴」を作る)。こういうことにすぐ気づいてしまう天賦の才があるゆえに(アホなんかコイツ)「ドリルすげーっ!」ってなった。だから『4分33秒』はすごい。
漫画も同じだ。1ページまるまる黒のベタ塗りで埋めても、作品の価値はない。インクの分だけ原稿料増やして~とはならんわな。インクが塗られてない部分があるから意味があるのだ。うーん、ちょっとこっちは強引な例えだな。ドリルと違って黒い紙からインクを消していくわけじゃないしな。ほんじゃーいらん例え話書くなよ。すぐによ。

あかん、話がなごうなる予感がしてきたで、また。


とにかくそれほど、よく考えられたコンセプトだなぁと思わされた。オレ的には「一画三驚」だ。
あえてとてもチープな言い方をすれば、壮大な二コマ漫画だ。だけど、二コマを並べるのではなく表裏にすること、綺麗に見せるだけじゃない光を使う意味、タイトルを付けるということの意味(三驚にしたのと3つ挙げたのは関係ない。タイトルで三驚。先の例なら、タイトルがあることで「悲しんだ分だけ未来で幸せが咲くのだ」と伝わる。ライティングは循環してるんでタイトルなくても伝わるだろうけど、あることで落款のようにバチコーンと伝わる。ここまでオレの個人的な感想に過ぎない)。これらがホントに過不足なく埋まってる。

こういう境地にたどり着いた表現者はさぞ幸せだろうなぁと思う。現世と自作の世界を行き来できるんだから。



オレにも密かに、鍵盤を使ったそんな理想の表現の種がある。本人がヘタ過ぎてまだまだ発表できないけど、個人的には未踏、かつ、意味のある弾き方だと思っている。

こっちのほうは曲の発表と違って、期限は死期だ。締め切りまでが長すぎてなかなか進まないんだよなぁ。
まぁ、長いかどうかしらんけど。




いいなと思ったら応援しよう!

仲大輔
サポート大歓迎です! そりゃそうか!😆 頂いた暁には、自分の音楽か『しもぶくりん』への「やる気スポンサー」としてなるべく(なるべく?)覚えておきます✋ 具体的には嫁のさらなるぜい肉に変わります。