ホン雑記 Vol.544「みんなせんせい」
ついさっき、オモチャみたいなカップラーメンを食べながら何げなくテレビを点けたら公園に置いてあるピアノが映ったせいで、結局そこから40分ほど観きってしまった。
NHKの「街角ピアノ」という番組だった。
たまたま点いたチャンネルが民法のワイドショーだったら、そっちを観て終わってたかもしれない。
番組を観てて思ったのは、なんとなく自分の音楽観が上がってるのかな? ということだった。それは技術とはまったく関係ない。あー、でもやっぱちょっと関係してるのかも。
昔は若かったんで(当たり前だな)、自分より上手い人を見ては「ケッ、そんなに変わんねーよこんなもん」だったり、下手な人を見ては「フォフォフォ、まだまだよのう」なんてことを思うヤなヤツだったんだけど…あ、いや、ウソ、今も居るわ。ハッキリと居る。
でもまぁ、激減してきたのはわかる。もうのべつ幕無しに敵視することが減って来た。事音楽関係に関しては殊に意識を異にしてたんだけど、最近やっとムキになる度が減ってきた。
で、そのこと自体が、音楽観が上がってるのかな? と思わせるのだ。
敵視のイライラがスッポリと抜けた後釜には、観察眼とでも言おうか、俯瞰とでも言おうか、いやもうハッキリ言って神瞰みたいなことが起こっている。
って、これ冷静に見たらだいぶヤベーヤツだな。カルト宗教批判の強まるこのご時世に、自分のことを神だとか言い出したぞコイツ。まぁ、しかし落ち着きたまえ、諸君(どの口)。
オレ的神学では、神は言うなれば森羅万象である。簡単に言えば「すべて」だ。最初から簡単に言えよ。
結局何が言いたいのかというと、自分より下手だったり幼い子がピアノを弾いてるのを見て、その人の音楽観みたいなものが伝わってくる「気がする」ようになったのだ。思い込みの域を出ない可能性も多々ある。
先述の「神瞰」とやらを説明しようと試みるなら、たとえばオレが音楽を「30」知ってて、ピアノ習いたての子供が音楽を「5」知ってるとする。これがなんの数字かはワシにもわからん。
で、前ならその「5」はオレの「30」の中にスッポリ入ってると思ってたんだけど、今はその「5」の中の「2」ぐらいはオレの知らない「2」なんじゃないか? と思うようになったっていうかね。
全然わかんねーじゃん、何これ。
んー、もうちょっと補足してみようと試みるなら、つまりは、どこの誰も、たとえばベートーヴェンの「85」を持ってきても、その子供の「1」ほどは取りこぼすんじゃないか? なんなら、すべての人間の中の音楽観は、必ずどこかにオリジナリティが残るんじゃないか? ということ。
つまりは(2回つまってるな)、音楽の神というのは、本当に人間のことを指しているんじゃないのか? ということ。詩的な表現じゃなくて、マジの意味で、マジの神が、である。
え、全然わかんねーじゃん、何これ。
いや、でもなぁ、さっき感じた感覚はこの言語化が一番近いんだよなぁ。
その証左に、北斎は80を過ぎて「猫一匹すらまともに描けないのか」と悔し泣きしている(普通に考えたら証にはならんけど、オレから見たら恐ろしく整合性取れてる)。
最高の絵描きが「まだまだ足りない」と思うのだ。どこまで行っても足りるものじゃないんだろう。
オレ、ついこないだ初めて気づいたんだよね。右手ですら「ドレミファソラシド」をちゃんと弾けてないことを。
今が全盛期という事実だけは、ツクリテのはしくれとしてこの上ない喜びだ。