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イヤらしい安心感。

前回の記事を書いた時ほど、このnoteを辞めようかと思ったことはなかった。
が、敬語での語りかけ口調をやめることで、なんとか今までと違う形態の記事を書けた。記事、と言うのもおこがましい駄文ではあったが。


ところで、オレのセルフイメージは自信のない過信家である。つまりは自信がない。つまってない。
それがバレるのがイヤで、時折一点集中的に自信のようなものを纏わせてみては傾いたりするのだが、やってることはチンピラそのものである。
だから同類っぽい輩に出くわすと、なんとも恥ずかしい気分を含めた9割5分の嫌悪感と、その残り分の親近感を抱く。

そんな生き物なので、とにかく人を羨む。大概幸せ者だと、気取らない時の自分は思っているが、それでも大概の物事を羨んでいる。全般的には自分はそれほど馬鹿だと思っていないのだが、ここに関しては自分でも涙ぐましいほどの馬鹿だと思う。何度恵まれてると思いなおしても…いや知りなおしても、駆け出しに戻っている。

いつも人を羨んでるようなヤツは大概性格も悪く、もちろんオレも例に漏れずそのひとりだ。そして大概は、純然たる「才能」に嫉妬していることが多い。

もうひとつ、才能の他に「行動力」というものも大きく妬むものとしてあるのだが、これは例えば「神様! 筋トレだけはしたくないんですが筋肉ください!」と嘆く類の愚行だと思っているので、その訓練を後回しにしてる自分にちょっと嫌気をさしておけばいいだけ。

が、才能だけは自分のそれを見返してみると、靄がかかったように見えなくなる。例えば料理でもしてみると、ちゃんと味が分からなくなる。味はしているのに。

自分の場合は特に、言葉遊びや、作曲や、歌あたりが一般平均よりは秀でていると勝手に思っているが、そのへんになると尚のこと分かりづらくなる。


と、ここまで長々と書いて来たが、このまま進めてもタイトルに辿り着きそうな角度ではないことに驚きを隠せない。一体今まで何を考えて書いていたのか。まぁいい。ググっとムリクリ芯に寄せていくとこうだ。

つまり、オレにとっての圧倒的なメンターが手放しで褒めたたえる人間、とその作品などが、自分の琴線にまったく触れて来ない…どころか、唾棄すべき世界観を持っているということが過去にあって、最初それに狼狽したりもするんだけれど、何度も同じことをそのメンターがやってくれると「おやおや?」という、イヤらしい自信みたいなのが湧くのだ。

もう本当にイヤらしいことは重々承知なのだが、むしろ、希望光明福音垂涎のオンパレードといった感じで垂涎モノなのだ。垂涎2回言うてもた。

「なんだコイツ。大したことねーじゃん。何がいいか分かんないんだ?」と少なくともオレは大いに救われる。

これが、その人物への嫉妬の炎でオレを盲目にしてる感じは素直になく、まさに膝を打つという感覚。「そりゃそうだよなぁ」って。
こんなことは当然と言えば当然で、その人も人間なんだから、すべては勘違いの集積に過ぎない。逆にオレみたいなやつが力を与えてしまっていたのかと思ってしまう。相手も所詮は人間なのに。

自分は天才だと思うのも、生きる術無しと世を儚むのも、すべては勘違い。オレの思った「何がいいか『分かんない』んだ?」も、もちろん他人から見たら勘違い。だけど、少なくともオレから見たら圧倒的にその世界観は間違い。


って、読み返してみたら44の男が書く文章とは到底思えない児戯っぷりじゃないか。

本当に学生気分がまだまだ抜けないなぁ。




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