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『おつむひらけば』Vol.3「神の考察」
さてさて、オレ的大好評の、10年前に書いてたブログの使い回しコーナー。
今日のはちょっとイタい。35歳の時の発想にしてはだいぶイタい。
で、今もだいたいこんな感じ。
タイトルの「おつむひらけば」は当時のサイト名になります。
「神の考察」
神がいると思う人、いないと思う人、それぞれに共通のものを見いだすとしたら確固たるものはこうである。
いると思う人は、神がいたほうが自分の人生にとって都合がいいのであり、いないと思う人は、いないほうが自分の思う世の姿に沿うのである。
神は存在する。これは否定のしようのない事実である。いないと思う人は、どこからか仕入れてきた、人型をした良識の塊のようなものを想像しすぎている。それは神ではなく、太古の人々の空想にすぎない。
巻貝の形が黄金比を模すこと、ミツバチがダンスで仲間に餌場を教えること、植物が己の意の為に虫を利用すること、万有引力があることなどなど、それらすべて、森羅万象が神と言える。
無神論者がよく言う言葉にこんなものがある。
「もし神がいるなら、こんなに酷いことを見過ごすはずがない。だから神はいないのだ」。
自分の悲運を、単なる偶然によるものとせずに、神を持ち出して否定している矛盾は勿論のこと、神がいたらまるで自分が悲運に見舞われることが有り得ないことのように捉えている観念がすでにおかしいのだ。
これもどこからか仕入れて来た神のニュアンスに縛られてのことでしかない。
さて、神はさほど幸せではない。おそらくまるで全知全能ではない。
彼(彼女)が全能ならこの世界を創る意味がない。創らずとも分かるはずだ。
彼は、人間がする経験のすべてをおそらくは経験している。
もちろん、事がウマく運ばなかったことによって、己が飛躍的に成長するという経験もしているはずである。
彼は神なのだから。成長する彼が、都合よく最初からあらゆることを理解していたとは思えない。
彼自身が、イヤなことを避けて通らずにクリアしたあとに訪れる報酬を知らなければ、試練を人間に与える気になるとは到底思えない。
神に憧れ、目指す人は多いのかも知れない。
事を成す力が他の動物より遥かに優れている人間が、唯一敵わぬ神の力を欲しがるのは当然のことだ。
ただ、多くはその力と地位にのみ目が行ってしまって、神になりたいという人物イコール傲慢だと評されることが多いのかも知れない。
神になるということはそういうことだけではない。誰(何)より意を通す力がありながら、誰より謙虚なはずだ。
人がどんなに絶望のふちに立たされても、なんとか立ち直れるように作っているし、どんな外道に堕ちても、永劫に許さないことはない。神は誰より折れてきたのだ。
彼は誰より強く、誰よりも弱い。不安や恐怖が強い生物が、より事を成す力が大きいことを思えば、彼は誰より恐怖に苛まれている。それなのに何かに祈ることもできない。自分が何よりも強いからだ。それゆえに弱い。
彼は誰よりも愛され、誰よりも憎まれている。そしてそのことを誰かに自慢することも、相談することもできない。
彼は誰よりも孤独である。
神になるとはそういうことだ。簡単な話ではないのである。
ここまで書いて読み直してみると、自分も有神論者にありがちなミスを犯している。
森羅万象自体が神だと言いながら、後半ではその中の一つにすぎない、何かを成そうとしていくエネルギーにのみ、しかも擬人化して書いてしまっている。
自分もまた、どこからか仕入れてきた、人型をした良識の塊のようなものを想像しすぎているのかも知れない。
今もだいたいこんな概念だが、今よりもだいぶウザいな。らしくなく「詩」のエッセンスが強い。あぁイタい。
ということで、今日はすんごい手抜き。
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