ホン雑記 Vol.667「ヨクミキキシ『ワカリ』」
ここ2週間ぐらい続いてた漠然としたメンタル的不調、お先真っ暗感(先は見えないから暗いの当然とか自分で言っておきながら)、自尊心の急激な低下なんかから浮上して、あーやだやだ、と思いながらもかなりいいことを学んだ気がするのでメモっておこ。
それは、恐怖は痛みと同じで必要不可欠のものであるってこと。
あーぁ、こうやって書いてみると、人間さんの97%ぐらいはわかりきってることよなぁ。あーやだやだ。
でもこれがまぁ、いわゆる腑に落ちる感ってやつだったんさ。
この不調は、前々から気づかないうちに下がってきてたエネルギーのとこに付け加えてしまった、ゲームを買ってハマるという習慣が如実に作ったものだなぁ、と気づいてきた。
あまりに急激なテンションの上下(そもそもそういう人なんですけれども)があって、さすがにこれは気づいた。こりゃゲームのせいだなと。
やってる時はまぁ幸せなんだよ。そこまで落ちるってことは、結構幸せ感じてたんだろうな。でもさ、遠足とか修学旅行とかパーティナイト(参加したことないからしらんけど)なんかの幸せと決定的な違いがあって、それは「ずっとこんなことやってていいのか」っていうもう一人の自分が出てくるかどうかなんだよね。
人と関わっていない、何も生成していない、が重なるともう片方が出てくるんだろう。子供の頃は時間制限されてるからいいんだよ。「ずっと」の部分が消えるんで。
で、これと関係あるのかまったくわからんけど、とにかくこの経験からひどく学んだことは、「恐怖を恐怖の形で感じられなくなった時が本当に恐怖すべき時」だと思った。あ、オレが最近ここで声高に掲げている「接触不可視の法則」とも重なるものがあるな。すでに触れている物事は認識できない、っていうアレだ。アレって言われてもな。
ゴミ屋敷を作り上げる人がパッと浮かんだ。
たぶん彼らだって小学生の時にはあれほど偏屈じゃなかっただろうし、汚いものに触れないっていう生理的なレベルは平均的なものだったと思うんだ。それが川の流れのような、つららのような、鉄サビのようなものと同じく、同じところに同じことは重なり続けていくように(詩的だったらすんまそん。そう言ってくるんで、脳のヤツが)、本っ当に知らず知らずのうちにその状態になってしまっている。これはもちろん良いほうについても同じだ。
彼らの中にはもう「うわ、俺の部屋汚なっ!」って感覚はなく、まわりの人間が見たらどう見ても無意味(本人にとっても)なものだとわかるのに、当人は「それはだいじなもんだ! 捨てるな!」と全所持品に対して思ってしまう。
こうしてゴミ屋敷や、この真逆である(陥ってる心理状況は同じだが)「これってバイ菌だらけじゃないの?」「私って太り過ぎなんじゃないの?」現象を引き起こす。
人生上手くいってないんじゃないかという時にはわりかし上手くいっていて、すでに全然大丈夫じゃない状況の時にはまだまだ大丈夫と思ってたりする。
これはどんな賢人でも気づかないようにできてる気がする。「うわぁ、この人でも気づかないんだー」ってホントに何度も思わされることがあったし、それにファン・ガンマ・ビゼンが天才軍師アル・レオニス・ウル・グルラに勝てたのも人の知の唯一の穴を突いたからだ。
ってか誰だよそれ。
ということで、何よりだいじなのは自分を監視する目なんだと思った。
あぁ、これも文字にしてみるとなんと陳腐なことよ。およよ。
あ、ことよとおよよが韻…
つまり、自分で決めたルールに従うのが一番良さそうだ。
これは投資の世界では鉄則で、かのテスタ氏も自分が決めたルールを至上の玉条として動いている。
これも、心境が変化したあとの自分は「いや、自分は変わっていない。むしろあの時ルールを決めた自分が間違っていて、いまの判断が正しいのだ。これは改善なのだ…」という「改悪」を平気でする生き物だということをまったく認知できないことに対しての策だろう。
そもそも、”神様”のバフェット氏も言っている。
ルール1 絶対に損をしないこと
ルール2 絶対にルール1を忘れないこと
ふたつのルールは、人間がどれほど欲をかいてしまう生き物なのかを痛切に物語っている。オレもシットコインに手を出しすぎたために、イーサリアムだけは1.5倍になってるのに全体では含み損になってしまった。とほほ。
あら、とほほも韻…
ブルーハーツの歌の一節に、
「色んな事をあきらめて 言い訳ばっかりうまくなり」
という部分があるけど、これはホント「自分には関係ないことだな」と思わされる、不可視の招かれざる上達をよく言い表してる。
想像をはるかに超えてうまくなってしまっていることに自分では気づかないんで、これは言い訳じゃないと自分すら騙されるのだ。