ホン雑記 Vol.78「言葉はなぜうまれたのか ~おまけ(であり本題)~」
前回、前々回と、図書館でチラ見した本、「言葉はなぜうまれたのか」を紹介してみたが、そもそも「この本のことをnoteに書こう!」と決めたのは、あとがきのせいであった。中身にはそんなに触れるつもりもなかったのに、2回に分けるほど伸びてしまった。興が乗ってくるとこういう結果になる。
東京大学教授であり、理化学研究所の先生でもある著者の岡ノ谷氏も、こんな「なぜ?」の心からスタートしたんだなと感極まってしまった。わりとすぐに感極まるタチだ。
あとがきを載せたくて載せたくて、コソコソと写メってきた。本屋じゃないからいいよね。しらんけど。
「ことば」から「こころ」へ おわりに
私は天文学者になりたかった。宇宙の果ての果ての果てのことを考えたかった。宇宙の始まりのその前の前のこと、宇宙の終わりの後の後のことを知りたかったのです。でも高校で習う物理さえよく理解できなかった私が、天文学者になれるはずはありません。
私は動物学者になりたかった。人間のせいで数が少なくなった動物たちや、滅びゆく動物たちを保護して、長い歴史の中でせっかく地球に生まれてきた種(しゅ)を、少しでも長続きさせていくことに命をささげてみたかったのです。でも、ネズミ一匹あやめることさえできなかった私には、動物学の勉強は無理でした。
私は音楽家になりたかった。毎日少しずつ楽器を練習し、ときどき小規模のコンサートを開き、私の奏でるギターの音で、ほんとうの涙を流す人が少しだけいれば、それでよいと思っていました。でも、正確な音階を紡ぎ出せない私の指は、私自身を感動させることさえもとても難しかったのです。
私はこれらのどれにもなれませんでした。すべてに中途半端だった私は、中途半端だったからこそ、いつも自分が何なのかを考えて過ごしてきました。いろいろな夢をみて、いろいろな夢をあきらめて、でも振り返ってみれば、どの夢も本当にはあきらめきっていないからこそ、この問題にたどり着いたのかも知れません。
気がつけば、おぼろげながらも言葉の問題を考え始めてから30年以上がたちました。今の私は科学者として位置づけられておりますが、科学という言葉でみんなが理解するのとは異なる方法で研究を進めています。言語の起源という、真実を知ることの不可解な分野で研究するためには、今のようなやりかたで仮説を積み重ねていくしかないのではないかと思います。たとえ真実がわからなくても、真実に近付く努力を続けることで、努力の中から思わぬ成果が生まれてくるかも知れません。この本は、その成果のひとつなのです。
哲学者ヴィットゲンシュタインは「語りえぬことについては沈黙しなければならない」と言いました。しかし私は、語りえぬものについて、語り続けていこうと決心したのです。
でもほんとうに、ほんとうに知りたいのは「こころ」の問題なのです。こんなふうに考えつづける自分の意識とは、いったいどうやってできているのだろう。意識を意識する自分は何なのだろう。意識にとって「ことば」は不可欠なのだろうか。いつかこれらの問題をまとめてみたいと思っています。
岡ノ谷一夫
上で感極まって、と書いたが、普通に泣いた。またウソこいた。マスク嫌いだったけど結構バレにくいので役に立っているかもしれない。
前にドリアン助川氏が産んだ「選ばれていない時が選ばれている時」という金言について触れたが、同じような癒しを感じた。
それに、自分をなんとなく「理科(特に宇宙)と音楽の人」というようなカテゴリーにほりこんでいるので、これを目にした時のシンパシーはすごかったのだ。詩人のまど・みちお氏が言うところの「ふしぎがり」のエッセンスがオレにもわりと配合されているように思う。
科学者、音楽家に続いて、物書きの道も断たれる日が来るかもしれないが、そんな時にニヤっと笑えるような男には成っていたいなぁ。
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