ホン雑記950「また細部の話」
習熟には基本がだいじって言われるけど、中学での水泳の頃には意味がわからなかった。
ついここ最近、鍵盤弾いててそのことを「なるほど」と思うとこまではきたんだけど、なぜ基本がだいじなのかは説明しきれなかった。
それが、さっき弾いててちょびっとわかった気がする。
最近ここでよく話題にしてる反田恭平くんが、
「ゆっくり弾く。結局それが一番早い」
って言ってるのを見て泣くほど喜んだ。この人がそういうなら何も、なーんにも焦ることないんだなと。
で、その言葉に大いに救われると同時に、「なぜ?」と思うようにもなった。「動きをゆっくりにするとなぜ習熟に近づくのか」と。
ま、当たり前っちゃー当たり前だわな。やりにくいたいていの作業は速度を落とすことで、最速でそれをやるよりは遥かに容易になる。車の運転の速度、綱渡り、箸で大豆をつかむ、などなど。
当たり前すぎて「なぜゆっくりがいいのか」なんてあまり考えもしなかった。
さっき、とあるフレーズを弾いていた。
んー、たとえば右手で「ドレミファソラ」を順に弾くとしよう。ラがあるんで残念ながら5本指じゃ足りない。ファで指くぐりをするんで、ドレミとファソラは同じ親・人・中の運指になる。
これを高速でやりたい時には、自分が弾ける中ぐらいの速度でまず慣らすと思う。指くぐり前のミ、くぐるファ、くぐり後のソが最も練習する場所だろう。この時の運指は中・親・人だ。
この時の動きを脳内のありとあらゆるニューロンをつなげまくって、完璧なものにしたい。そうすると低速でしばらく慣らすだろう。
これでもまだしっくりこない時に、工場のラインの人、海外の同じ飲食物を延々と作る職人などを思い起こす。
気が遠くなるほどの時間やってれば、必ず最も最適なルートを指先が、脳が、探し出すはずだと。
が、そんな時間はない。そしたら今度は、超々低速でミファソの運指をトレースする。イメージがだいじだ。ミやファやソの動きに人格を持たせて、ミが受け止め送り出し、ファが華麗に舞い踊り、ソは優雅に着地する。
あ、もうみなさんはこのへんでついて来なくていい。オツムが語りだしたわ。
ミファソの3人のそこの動きだけで、映画1本録れるようなイメージで、やる。
するとですね、超々低速では普段の動きってのはトレースできないことがわかるわけですよ。どうしても身振り、指振りがオーバーになるんだな。まったく同じルートを通ってない。
するとその間の、超低速が結局必要になってくる。ことがらの最も細部に入り込んで、「あぁ、親指さんが中指さんをくぐる時にはこんな一挙手一投足が繰り広げられているんだなぁ。大スペクタクルだなぁ」と、本気で思うためには、脳内が全部その感覚にズブ漬けになるには、その細部への足掛かりが必要になる。
ここでやってることは、「ドレミファソラ」を速く正確に弾けるようになりたいという目的の真逆を行ってる。これがきっと、人はしんどいんだろう。だから継続こそが天才(昨日天才とかないとか言ったけど)のカギなんだ。普通はやめちゃうからね。
アリ塚などに見られる「創発」という現象は、アリ塚という全体が先にあるのではない。当然アリと土が先にある。
「速く弾く」という現象を起こすためには、その要素が少ない状態からその上の次元へ、そのかたまりが集まってまた上の次元へ、となっているはずだ。ここで言えばそれは「スピード」だろう。つまり最初は「ゆっくり」となる。
リズムでもそうで、拍子が「1」だけでは「2」の位置がわからない。「1・2・3…」とくれば「4」の位置はおのずとわかるだろう。クソ正確に「4」を打ちたければ、その前をクソ吟味しないといけない。
もうこのへんからオレ自身もついていけてない。
つまり「中速」を極めるのには、延々とやってる職人さんのやりかたでもいいんだけど、それより、それができることの構成要素を探しにいくほうが早い。つまりそれは、より遅いスピードのほうにあるわけで、細胞、分子、原子、原子核へと見に行くような旅だ。その旅の感覚が多ければ多いほど、天才(またゆーてる)に近づくんじゃなかろうか。
だからヤワラちゃんや室伏なんかは、普通の人が見たら理解できないような独自の特訓を編み出すんだろう。自分が世界一になってしまったら、より細部を訪ねる方法は他の誰も知らないんだから。
このことを、範馬勇次郎氏は「力の流れが見える者、それをセレクトできる者」と言い表している。
さすが最強だ。
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【今日のオリジナルソング】
クリスマスまでこれで行くぜー。
しつこいぜー。