雑記1107「神を追いやる愚行」
知覧観光メインの鹿児島旅行から帰って来てから、Xで特攻隊員の遺書botをフォローしている。
一度知覧特攻平和会館に行っただけでは、なんか遠足程度の思い出も出来なかったような気がして、罪悪感からか貧乏性からか、根こそぎ味わいたいと思ってのことなんだろな。
まず驚くのはその文章力…というのも語彙力…というのもなんだか陳腐でイヤなんだけど、とにかくあの頃の日本の若者というのは、みんながみんな言葉というものの近くにいたんだなぁと思った。
言葉を扱って食べていけたらなぁ、とぼんやり思ってるオレなんかよりも、彼らの平均の語彙のほうがだいぶ上回っていて、軽く嫉妬みたいな感じも湧くんだけど、湧くことすらも失礼に思えるのか、軽くで済んでる。
もうひとつは…もうひとつというか、こっちが土台になってるゆえの言葉のすごさなのかもだけど、それが襞力というか機微力というか琴線力というか…って、なんでも力つけたらええと思うなよ~?
つまりは、いまの人ではあまり感じてないような感情の種類を感じてたんじゃないかと思うんだよね。
「スゴい」さえ「ヤバい」で表すようになっちゃった現代では、どーにもものごと考えてるようには見えにくいのよねん。
とはいえ「すごい」自体が昔はマイナスの意味しかなかったんで、やってることは昔も同じだし、国外でもそういう(crazy、insane、killが誉め言葉とか)言い回しはするんだけど、言葉のほうが淘汰されていくのはなんかイヤだなぁと思うオッサンなのだ。
で、琴線力のほうが土台ゆえの語彙力って上では言ったんだけど、これ逆もあるのかもな~とも思う。日常的に使う言葉の種類が多かったために、感情もちゃんと分化していたんじゃないかなと。ま、どっちもだろね。循環してんだろね。
聖書にも、
「はじめに言葉ありき。言葉は神とともにあり。言葉は神なりき」
ってあるし、そういうことなんだろね。
どういうこと~。
あとは、ひとつ特徴的だった遺書が、
「現代ほど人間が神から離れている時代はない。もう一度宗教が蘇る日は来るのだろうか」
という嘆きの類のもので、紀元前から言われてたらしい「まったく最近の若者は」と同じように驚いた。
オレは宗教嫌いなんで、そこは勝手に「敬虔な信仰心」と替えて汲んだけど、この方がいまの日本を見たらどれだけ悲嘆するんだろうと思った。すいませんもっと酷くなってます、と思ってしまう。
ま、未来を歩く人に対して失礼なんであまりこういうことも言いたかぁないんだけどじゃーゆーな。
神州、神鷲、大君、男子の本懐…
あたりの言葉は遺書の中に何度も散見されるけど、そういった言葉をもう使いにくいというようなことでは、その感情のほうも人から失われていくわなぁ。
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