ホン雑記 Vol.18「神様ゲーム」
もんのすんごく苦しい時って、意外と「世界には自分しかいない」って妄想するとラクになったりする。
一見、逆のような感じがするじゃない?
苦しくて孤独を感じてる時に、宇宙空間にポツンと自分ひとりしかいない妄想だなんて。これが意外や意外、割と効く。
この孤独ゲームはスポーツとかと同じでレベルアップする。
最初は普通の人間として(え?)妄想すると苦しくなるかもしれない。より自分の孤独を見つめることになるから。
でも、孤独は完全シャットアウトの中では感じない。
海や星空などの壮大なものを見て、ちっぽけな自分を感じるんだけど落ち込むってあまりないと思う。小さな自分に気づかされるのに落ち込まない。
同じように、自分以外に何もないと思い込めれば、案外孤独にはならない。
本当の孤独は、スクランブル交差点の中でふと、自分以外の全員が幸福によって繋がっているんじゃないかという恐怖の錯覚の上に起こる。
自分だけが「独り」なのではないかと思い込んだ時に起こるわけで、その時必ず隣にヒトがいる。
で、レベルアップが捗ると、自分が神様じゃないかと思うようになってくる。いや、まだまだそんなレベルじゃないな、ウソついた。
ただ、人に対してイラッとした時に「え、オレ神様なのに怒るのおかしくない?」って思うと結構留飲が下がる。
イラッとする時は必ず「比較」と「期待」がある。自分という神様1人しかいないんであれば、この人間の自分も相手も同じ幻想の肉体なので、自分が勝つこと、自分が評価されることが結構どうでもよくなる。すぐ戻るけども。
こういうゲームをやっていると、愛する者が自分の愛のパワーを上げるために存在している器に思えてくる。いや、どっかの宗教かぶれではない。
が、相当キモく映るんだろうなぁ、こういうの。苦手な人には。
愛のパワーと書いた時点で自分でもだいぶキモい。うーん、愛情度と言いかえよう。
普通の感覚では、愛する者がいて、それに反応して愛情度が上がると思うのではないだろうか。見て、反応して、という流れ。
でも本当は、本当のところは(キモいでしょ)、自分の愛情度を上げるためのゲームかなんかが先に行われていて(多分自分で決めたのだろう)、自分ひとりではその対象がないもんだから、愛情を注ぐ器が後から出てきたのではないか、そんな営みが行われてるのではないかと思ったりする。
これ、意外と真理を突いてるような気がしていて、その「自らの愛情を強烈に表現したい」という思いが、肉体を具現化させるのではないか? つまり子供の誕生になってるのではないかと思うのだ。
たまたま細胞が精子と卵子に分かれて、たまたまそれらがくっついて、たまたま出てきた得体の知れない細胞の塊を愛しているわけじゃないと思う。
つまり、生命体が「絶対に自らの愛など表したくない、その概念があると思いたくない」と強烈に思っていれば、絶対に2代目は生まれてくるまい。
肉体か精神かもっと大きな何かか、どこかのレベルで思っていないと命の循環が起こる必要もない。
誰かを失う時に痛みを感じるのなら
それはきっと最初から心の中にあって
その関係が痛み止めのような役割を果たしていたんだと思います
そんな支えを失ってしまうことに痛みを感じるのだと思います
これは、宇多田ヒカルの金言である。
オレが言ってることもちょっとこれに近いのかもしれない。
なんらかの思念や感情がすでに先にある。
それを具現化するために、愛情の器や痛み止めとしてあとから現れる。
今日もまたお花畑な記事を書いてしまった。
松本人志が「生きた人の中で誰よりも笑いを聞いた耳でありたい」と言ったように、オレも「誰よりも愛の形を知った心でありたい」といつも思っているのでしょうがない。
でもそれは本当はとてもとてもつらいこと。
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