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雑記1104「二転三転する話」

自分がならんようにするためか、最近老害関係の話題を多く取り扱ってる気がする。たまたまと思ってたけど、いつもそんなこと考えてんだろね。
今日のはそんなに関係ないかもだけど、自分の至らぬ点にはまぁ気づかないよなぁってことでちょっと書いてみる。


それは浅さだ。

日焼けのお供に賢治の弟である宮沢清六著『兄のトランク』を読んでいる。
その中で、ポーランドの学者あたりの人が「弟子のひとりに賢治を研究させようと思うのだが…」と言っており…といったエピソードが出てくる。

で、そこで思った。ふたつ思った。
弟子にその道を歩ませようか…と思う人がいる時点で、賢治ひとりでその体系を作ってしまっているのか、と。
それは作品のレベル(オレにはそもそもわからんが)などの些末は置いといて、とにもかくにも生み出したものの「量」が違うのか、と閉口させられた。ま、ひとりで黙読してるんでそもそも閉口してるわけだが。
作り手を気取るオレと一番違うとこはこの「量」だなぁと思ったのだな。

んで、もうひとつ思ったのが「オレも後世で研究されたいっ!」ってことだった。うん、子供みたいでしょ。48なんだぜ。これで。
で、もっかい「量だよなぁ。そうなんだよなぁ」って思いを何重にもアホみたいに塗り重ねるんだけど、30秒後ぐらいに「浅っっっさ!!!」って辟易するわけ。
賢治は研究されようと思ってものを書いたわけじゃないよなぁ、って。

同じ本の中で清六さんは、「これは私の考えですが」と付けてこう言っている。
「兄の作品は詩や童話など形は違っても、心象スケッチでないものはひとつもないでしょう。そして、完全な心象スケッチもついにできなかったと思います」と。

もうそれは賢治の心象スケッチは、ゴッホにとっての黄視症のようなものだったんじゃないかと思う。
ゴッホの作品には黄色がかったものが多いけど、視細胞中の赤を感知するR(L)錐体、緑を感知するG(M)錐体に問題があって、その結果白色が黄味がかって見えるためらしい。

賢治の精神というか心眼もきっとそうで、オレも最初は「こねくり回すなぁ」と思ったことも、正直ある。作家って大変だなぁって。生前は作家として扱われたことなどないことも知らんで。
が、『注文の多い料理店』序文で本人が言うように「もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほんとうにもう、どうしてもこんなことがあるようでしかたないということを、わたくしはそのとおり書いたまでです」とあるのを見ると、本当にそう見えているんだろうなぁ、と思った。

これはドリアン助川氏にフェイスブックのコメント欄で「よくあんな見事な表現が浮かびますね」と驚嘆を伝えた時に「ああいうふうに見えてるんです」と返事をいただいたことで、より強固になった。
つまり、そんなに苦労して(もちろんそんな日もあるだろうけど)言葉が出て来てるわけではないんだろうと。


オレも以前、一時的に黒い2ミリぐらいの半球状の虫が、どうしても神の端末にしか見えなくなった時があった。
よっぽどヒマだったのか、その虫を30分ぐらいずっといじくって遊んでたら、その虫の存在自体がゲシュタルト崩壊を起こして(そんな経験は文字以外後にも先にもない)、どうしても虫に見えなくなった。
どれだけ正しい言葉と科学の理解を持ってしても(オレが持ってるという意味じゃなく)、それが神の端末にしか見えない、という以外の言い方ができず、またそれを聞く他者や、あの時以外のオレが「は?」という以外の反応を返せないこともよくわかる。

で、これはたとえば子猫なんかだと、たぶん3日連続で見てても無理で、圧倒的な情報量…つまりもうこれは明らかにどうしたって子猫だと思い込んでしまってるんで、ゲシュタルト崩壊はしないだろう。これが人間なんてものになったら…まぁ超言わずもがなだ。
2ミリぐらいの、ある程度反応するプログラム数の決まっている(外から見て取りあえずのだが)肉眼で認識できる小さな小さな(肉眼で見える大きさのことじゃなく)生き物でさえ30分もかかった。
も、っていうか、そう見えることのほうがおかしいのかもしれんけど。だけどこれは訓練の介入できる出来事だなぁとは思った。

で、こういう「目」を、賢治なんかはオレと比較にならない対象数に、時間も向けて、もうほんとうにいろんなものがそんなふうに見えて、「わたくしにもまた、わけがわからないのです」と言ってるんだろうな。


オレがいま一番研究したいのはサッポロ一番袋の酒井美穂子さんで、彼女のことを毎日毎日考える。特に鍵盤の基礎練で発狂しそうになった時に想うと、もれなく発作が収まる。

彼女は一見、何も数作ってないんで研究のしようもないんだけど、それは一見だけであって、「ほんとう」は卒倒しそうなほどのインプットとアウトプットを繰り返し続けているんだろう。
それは動画での、一歩前に出て袋を触り、後ろに下がって袋を触る、という行動なんかを見ても間違いない。
一般的に見れば「それをやる意味」に圧殺される生き方かもしれないけど、あの行動の中には途轍もない叡智が含まれている。外から見ると極めてわかりにくいだけで。

ALS末期の「閉じ込め症候群」の中でもさらに重篤なのは眼球運動すらできない状況だが(意識は正常(!)で周りには植物人間と同じに見える)、それを思い出した。

袋を触ってる彼女が自由を感じてるのか不自由を感じてるのか、わかりようもないが。




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【今週の過去分オリジナルソング】




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