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ホン雑記821「いい加減目覚めなさい」

昨日の記事で、人は全部のことを自分事として考えたらいいって言ったけど、よく考えたら追い詰められてる時にそんなことできんわなと思ったし、どっちかっつーと人を叩いてる側にモノ申した感じでもあったわな。

ということで、追い詰められてる側、自分は居ないほうがいいんじゃないか側、つまりは死んじゃわないようにする暮らし方を書いてみるだすよ。

オトンが自死こいちまって、絶望のさなかにあったオレが拾い集めたり思いついたりしたことを書いとくだす。


・五感を使う

オトンが死んでから「ハッ!」と気づいたんだけど、仏壇やお墓や葬式は亡くなった人のためにあるんじゃなくて、この世で悲しんでる人のために人類が作った風習なのだな。当たり前と言えば当たり前だけども。
亡くなった側は、(あるとしたら)あっち側のやりようでウマいことやってるんだろう。

仏壇ならお鈴で聴覚、線香で嗅覚、金ピカやお花で視覚、いろんな儀式・作法で触覚を刺激する。五感の使用はストレスをかなり軽減させてくれる。
そうなんです。人類が、つまり、いままで先に死んでいった人のほうが、生きてる人に対して考えてくれた生活の知恵なんだな。
祈ってるのはこちらではない。いや、こちらも祈ってるんだけど、こちらが祈るということを介して、実はずーっと、いまはあちらにいる人たちが祈ってたんです。心を病み過ぎることなく、無事に暮らしてくれと。うぇーん。

特に嗅覚はだいじだったなぁ。普段あまり必要性を感じないオマケのような感覚であるせいか、「楽しむこと」に向いてる。それに五感の中で最も記憶中枢に結びついてるんで、落ち込んだ時にメンタル寄りになる自分の頭を肉体のほうに戻してくれやすい。
「懐かしい~!」っていう感覚が強いのはたしかに嗅覚だ、って人も多いんじゃないだろうか。
お花はすごいねー。視覚でも嗅覚でも人を癒すよねー。天の祝福が一番具現化したものが花なんじゃないかと思ったりする。


・基本的な生活に関連した時間を増やす

そうなんです。便利というものが、いかに人を病ませやすいか分かろうってものだよなぁ。
まだ電気がなかった時代の洗濯(想像してごらんなさい)、調理(想像してごらん)、掃除(想像して)、買い物(想像…)だけでも、どれだけ五感と時間と体力を使うことか。ハッキリ言ってこの違いだと思うんだよ。モノを言いにくい世の中になったとか、いろんなことが変わったってのもあるけどさ。やっぱりカラダ使わなくなっちゃったんだ。

「なんだそんなこと」と思うようなことがらの中に、どれだけ人を救い上げる要素があって、そのことにどれほど人が気づかない、つまり「そんなこと」と思わせてしまうことか。
これは推測だけど、たぶん子供っぽい人のほうが、その失った側のもたらしてたものに気づきやすいんじゃないかな。つまり、オトナになっちゃった人でも子供の頃に自分がワクワクしたことを思い出してみたらいいんじゃないだろか。


・小学校の時間割のように暮らす

これは上のふたつをやるにはどうしたらいいかって方法論に近い。これをやっときゃ上のやつができちゃう。

国語の中にどれほどの物語、その入り込める異世界が、
算数の中にどれほどの不思議や達成感が、
理科の中にどれほどの発見とワクワクが、
社会の中にどれほどの先人の暮らしぶりとその叡智が、
音楽の中にどれほどの一体感とやすらぎと少しの恥ずかしさが、
図工の中にどれほどの自由と工夫が、
体育の中にどれほどの疑似闘争と悔しさと遊びが、
家庭科の中にどれほどの大人への階段の誇りが、
もれなく網羅されていることだろうか。

いや、中には「算数に達成感なんかねーよ」とか、「ぼっちには主要教科以外地獄だったよ」なんて人もいるだろうけど、全部が全部好きなんて人はいないだろうし、そこはごめんやしておくれやして。

でも当時のオレにはすんごいヒントになったんだよ。「全部入ってるじゃん!」って。「義務教育スゲー! 有り難すぎー! 日本に生まれて良かったー!」ってさ。
ついでに給食も掃除の時間もある。至れり尽くせりすぎだろう。だからジブリアニメにはあれだけ食事シーンと掃除シーンが出てくるんだよ。絶対そうだって。
しらんけど。

そういや、今日からジブリ新作公開だな。


あと、まったく関係ないようで関係あるけど、今日書いた全部に匹敵するのが「筋トレする人になる」ことです。悲しい時には最も向いてないようなイベントだけど、心のありように関係なく、それを日々の仕事とすることです。ボディビル界最高峰の大会「ミスター・オリンピア」7連覇のフィル・ヒースも言っておられます。
「友人が亡くなった時だって、アタマがおかしくなりそうなどんな時だって、オレはジムに行ったんだ。いつも」
ってさ。

前の会社でも、メンタルとエネルギーが最下層にあるような、出社できたりできなかったりの後輩がいたけど、どんだけ言っても頑として運動を拒んだもんね。で、知識はオレが会った人の中でも過去イチレベルだった。案の定やっぱりそうなんだ。
そんなもんは「知」全体から見たら微々たるもんでさ。カラダを使うことのほうが知識詰め込むよりもよっぽど「知」のファクターに近いところに行ける。
スポーツ選手のトップでアホな人思い浮かばんやんか。逆に学者とか博士とか…ま、ええか。


それとたぶんあれだな、自分は本当はすごい存在なんだってことを、美談でも慰めでもなく、実際にそうなんだってことを、知るのが一番なんだろうな。
それを知らない人はやっぱり人を叩くし、叩かれた時には実ダメージになるよ。

だいじなことなんで2回言うけど、自分は本当はすごい存在なんだってことを知ること。美談でも慰めでもなく、実際にそうなんだということを、なんとかして、ありとあらゆる手を使って知ること。
これだけでいいんだけど、これをなっっっかなか知りようがないのが難しいところだよなぁ。で、禅問答でもニワトリとタマゴでもなく、そうだと知った人が実際に、そう、なる。
これについては研究を続けていきたいと思うです。

あー、渡辺直美とかは自覚してるなー。ほかにも、もちろんいっぱいいるけど、気づいたからこそすごくなったし、それでまわりもあとから気づいたって感じあるなー、あの人。「いいとも」に出てた時とまるで違うもんなー。

ホント、あなた次第なんですよねぇ。




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