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ホン雑記 Vol.8「汝の隣人を愛せよ」
自分では一応、ツクリテのはしくれのつもりでいたりする。
一番得意なところはやっぱり音楽。いやいや、音楽が得意だなんてことは言ってませんよコレ。一番得意なのをあえて、しゃーなしに挙げるとしたら音楽だろうと。たとえばこんなのとかね。
客観的に聞いてみるとたいしたことないんだが、その中でも、歌詞、メロディー、歌に分けてみると、歌が圧倒的に下っぱ。
すると、言葉と曲で甲乙つけがたいところがあったりしちゃったり。うーん、オレ的には1%ほど言葉の才能が勝ってるかなぁ。才能とか自分で言うなって話だけど、比較対象がオレの曲なんだから別にいいじゃない。
お? 話そうとしてたこととまるでつながらない出だしになってしまった。そのまま続けてみるけど、まぁそんな感じで、自分の中では結構なんやかんやと数値化されているわけで。
「とても」とか言ったら85点とか、「だいたい」だと70点とか、「この上なく」だと93点とか、そんな具合に。
なのでオレの中では色んな言葉に数値と色あいみたいなものがついてて、その組み合わせの感じで歌ができていく。
と言ってもホンモノの共感覚者と違って、実際に「数字の5は悲しんでいる」とか、「北北西は少女っぽい」とか感じるわけではない。
あ、ただなんとなく、「ドは赤で甘い」「レは緑」「ミはなんとなく青(少し黄色)」「ファは限りなくオレンジでバターっぽい」「ソも困ったことになんとなく青」みたいなのはある。うーん、でもこれもホンモノの共感覚ではないなぁ。でも限り無くそんな感じがするのだ。
お? またテーマからずれてるな。
で、結局そんな感じで色々決まってて、人様もこの決まりごとみたいなのを分かってくれるんじゃないかという感覚があって(分かるわけもないのだが)、なんというか芸術とは言っても、ちゃんとしたものを提出してる感じで作ってるのだ。
ちゃんとしたっていうのはハイレベルっていう意味じゃなく、性質のような感じかな。もう、このへんから誰もついて来てないことはうすうす察しておる。
ところが、まったくそういう杓子定規的な何かを持ってない人がいて、もう何を言ってるのかも、描いてるのかも、奏でているのかも、サッパリ理解できないっていう。もう、キャンバスにぐっちゃぐちゃに塗りたくってて、何を伝えてこようとしてるのか、そもそも伝えてこようとしてるのか、理解不能っていうヤツがいるわけだ。
で、そういうヤツがこの数十年ほど、ずっと嫌い。おしまい。
ってなふうに思ったまま死にたかったんだけど(50年後ぐらいに)、なんかこの歳になって、自分とまっっったく相容れない芸術性を持ったヤツにちょっと惹かれはじめているんだな。
ツクリテとしてのオレが全然好きじゃないタイプの作品と人が、つまり琴線にまったく触れてこない世界が、気になるようになってきている。
「そっちは何をやっているんだい?」
ってな感覚かもしれない。
前だったら、
「オレの琴線に触れてこないようなものを作って、いったいなんになるんだい?(くだらないからやめたら?)」
だったものが、
「オレの琴線に触れてこないようなものを作って、いったいなんになるんだい?(何に成るんだろう?)」
に変化してきている気がする。
これはひょっとして、おとといの記事にも書いたように、自我が拡張されて、自分のそばにあるものを自分として捉え始めているのかもしれない。
好きと嫌いの境界線が薄まっているというか。
まったく関係ない話だろうけど、おじいちゃんとおばあちゃんの見分けがつきにくくなっていくのは、そういうことなのかもしれない。
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