雑記1166「命を使わないと説得力がない話だよなぁ」
昨夜NHKでイスラエル関連のテレビ観てて、はっきり気づいたことがある。
これはオレ的には大発見だ。
それは、
「正しさと正しさがぶつかるのが戦争なんだよ」
という言い古された表現が、「真」ではなかったってことだ。
そう、これが間違いだということをオレは発見した。
・大前提として
宇宙レベルでは善(ここでは正義でも)も悪もない。が、
・為末大氏の言葉を借りて
「正義(もちろん善でも)を語る時には、必ず範囲の定義を求められる」
これ、超納得した。
宇宙には良いも悪いもない。が、合戦の最中に上官に「自軍の兵も斬っていいですか」と訊くバカはいない。それがわかりきった「範囲」だ。「枠」「カンジョウ」と同じ類のものだろう。
オレはもう何十年も、悪のエッセンスをうかがって来た。
それはどういうもので、どういう時に現れて、どう表れて、誰に在るのか。
在るのはみんなに大なり小なり、在る。金八もそう言ってたな。
で、どういうものかって言ったら、その本質は「偽」であると思う。
偽は「隠」でもほぼ違いはない。
で、この偽が現われるのは、これもほぼ、自分の「利」になる方向性の時だけでしかない。
これを簡単に言えば関西弁の「ぽっぽないない」だ。つまりこれが、「悪」だ。
「公にバレないようにしたまま、自分の利になることのみを獲る」こと、これが悪だ。
そうすると、善とはその逆、
「真実を白日の下にさらし、その内容が全体のためになっていること」
であって、全体ってのも無限だ。人間全体でもいいし、生物全体のためならなお良いわね。
悪は隠れて縮まり、善はありのままで広がる。
で、最初の間違いについて。
それが「正しいと正しいは、絶対にぶつからない」
ってことだ。
悪と悪、これは当然ぶつかる。悪と善、これもある。悪が暴力を使う時に、善が武力でそれを止める(できればそれは「武器」ではないほうがいいんだけどねぇ)っていうのは、家に鍵をかけることに等しい。
が、善と善は絶対にぶつからない。
真の善は(それは存在しないのかもしれんが)、「自分は正しい」と宣言した瞬間に、相手にもそれが同時に起こることに他ならない。
すべてを公にして、誰のためにもなる…つまり少なくともその生命体にとっては「自分が勝つのもあなたが勝つのも、またその逆も、まったく同じこと」である行動が取れるなら、その善はいわば無限善であるわけだから、「私は正しいがあいつは正しくない」という状態は有り得ない。
このへんは死んでから賢治に訊いてみたいと思う。「世界が全体幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」ってのは、こんな感じのことであってますぅ~? って。個人が先、全体が先ではなく、同時でしかないと、オレは思う。
イスラエルの人が、イスラエルは正しいのだと言っていた。
誰それが悪で、それを倒すんだから、こちらは正しい者なのだと。
なんでこういう感覚に帰結するんだろう。そして、こういう類の人間(暴力を止めようとするイスラエル教師が、大勢の生徒に罵詈雑言を浴びせられ、ツバを吐きかけられる)のほうが多いんだろう。
善とは、オレの中では愛、真、神、美、なんかとほぼほぼ同じだ。
なぜほとんどの人間は、それらを自分の心身をもって見つめ続けずに、過去の人の言葉のほうを信じてしまうんだろう。
実際、この国でさえ「正しさと正しさがぶつかるのが戦争なんだよ」という「偽」が蔓延してるというのに。しかもそれは大抵したり顔で話される。で、だからどうしようもないんだ「シュン」、というシャンシャンで話は終わる。そこの認識が違ってたら、終わるものも終わらないっていうのに。
もちろんオレにも終わらせる力なんてなく、口だけだ。
だけど、「自分のほうが絶対に正しい」という意見が脳内に立った時は、「それは間違いであるよ」ということはわかったつもりだ。
もし、「自分が絶対に正しい」を「真」と立てるなら、それは「全体」の「真」も同時に立つ。
もし、「世界全体には正しいものしか存在していない」と本気で思えないなら、そのことは必ず自分にもあてはまる。つまり絶対的に正しい考え方など、無い。
オレは、やなせたかし氏のいう「正義とは」を一番採用してる。それは、
「目の前のお腹を空かせた人に、パンの一切れを差し出すこと」
だ。これだけは、世界や時代がどれだけ正義の定義を変えても絶対に変わらないって。
もちろん自分が死んでまで差し出せと言うのでもない。自分と相手をまったく同じにして考える。
そんなことが死ぬまでにできたらなぁ、って思う。
これは煽りでもなんでもないんだけど、上で言った類の人間には特徴があるなぁと、40分ほどテレビを観てて思った。
それが、テンションをあげ、群れ&体を揺らし&心地よい言葉を吠え、それを何度も何度もやる、という習性だった。
オレは「オレは男だ!」とか「人間だ!」とか「空気を吸わないと死んでしまうんだ!」などと、群れて、体を揺らして、何度も吠えない。なぜか。「その属性で間違いない」とわかりきってるからだ。
イスラエル人のひとりは「自分の祖父がホロコーストで殺されたんだ」と言っていた。オレはまったく意味がわからなかった。
彼も心の底の底の底のほうでは、どこかわかってるのかもしれんね。自分の中に正しさはないんだと。
自分でない者を自分として見るのは素晴らしいこともあるけど、自分でないところにまで自分が入り込むのはなんなんだろうか。また、その差はどこにあるのか。これはまだ研究中。
でも、たとえて言うならその人の言ってることは、自分の入った中学で50年前に4組と5組間で組を上げた抗争があった。自分はたまたま5組に入った。だから4組のヤツ全員ボコる…って言う構図と同じにしか見えないんだよ。なんというか、もうちょっと自分を上に引き離せないんだろうか。
で、そういう類のヤツ全員いなくならないかなぁ、って一瞬でも思っちゃったんで、やっぱり、これは大変に難しいことがらなんだなぁ、と身を持って体感した昨夜でした。
【今月のオリジナルソングさらし】
月末に新曲アップしてます。コメント大歓迎ちゅう😗