もうひとりの英雄
オレには、尊敬の上にある感情を持つ人がいる。
崇拝、と言うのが近いかもしれない。
2001年1月26日。
JR 新大久保駅で、線路に落ちた男性を助けようとして2人が亡くなった。
そのうちの1人が韓国人留学生、イ・スヒョンさんだ。
勉強もスポーツも得意で性格も温厚な好青年だった。
母親であるシン・ユンチャンさんは、息子が日本に留学したいと言いだした時に快く思わなかった。
韓国を植民地にして韓国語を使えなくしたと聞いて育った彼女は、スヒョンさんにそう切り出された当初、日本を好意的に思っていなかった。
留学して1年が経ち、スヒョンさんは日本についてこんなふうに話してくれたという。
「日本は学ぶことが多くて、いいところもたくさんある国。過去に執着することはお互いの利益にならない」
しかし、その2週間後、事故で息子が亡くなったという連絡が入る。
初めて訪れた日本で見たのは、息子の変わり果てた姿だった。
なぜ息子がこんなところで、こんな姿で横たわっているのか……
あまりに理不尽で理解ができなかった。
そのあと、信じられないことが起こる。
葬儀に数多くの日本人が駆けつけたのだ。
日本全国からの募金、そして2000通を超える手紙が届く。
その時、ユンチャンさんは思った。
「スヒョンは私の子だけど、もう、私だけの子ではないんだ」と。
日韓の人々の、希望の灯し火のような存在になったんだと。
今度は自分が、息子の目指した日韓の懸け橋になろうと考えた。
寄せられた募金で、日本に来る留学生のための奨学金制度を創設し、日本から届く手紙を読みたいと日本語も学んだ。
日本に関わる人と交流するたびに、次第に日本の印象に変化が表れた。
韓国と日本の間には、数え切れないつながりがあるのだと知った。
しかし、2019年。悪化した日韓関係がユンチャンさんの活動に影を落とす。
若者たちの日韓交流イベントに参加する予定だったが、イベントは中止されてしまう。
さらにその半年前には、一緒に活動してきた夫のイ・ソンデさんを亡くしていた。
日韓関係の悪化に心を痛めていた夫。
「韓国と日本の懸け橋になる」という息子の遺志を受け継ぎ、命尽きるまで2人してやり遂げようと思っていたのに……
傷心の中、寄り添ってくれたのは息子が通っていた日本語学校だった。
「息子と夫が遺した使命です。私の命が尽きるまで全うしなければ。息子はいつも言っていた。日韓の懸け橋になりたいと。その言葉は私に託された宿題です」
この事件には歌手の玉置浩二も魂を揺さぶられたのだろう、スヒョンさんに捧げる歌「STEP!」を作り、釜山までご両親に会いに行っていた……
と、この記事を書き始めた時は締め括るはずだった。
だが、今まで考えたこともなかったが… いや、ウソだ、知っていたけど、なぜかスルーしてしまっていた。
この事件では最初に線路に落ちた男性も含めて3人が亡くなっているのだ。
Wikipediaを見ながら、なぜこんなことを今まで意識しなかったんだと我に返るようだった。
助けに入ったもう1人、日本人のカメラマンの男性も亡くなっているのだ。
美談には、どこか「美談」というだけで揶揄的な響きがある。
若い韓国人留学生が、あまり仲のよろしくない隣国で、泥酔して線路に落ちた日本人を助けに行って亡くなった…
というストーリーのコントラストは確かに美談である。
もちろんオレの言う「美談」に揶揄的な意味は微塵もない。
崇拝までしてるのであるわけもない。
ただ、ストーリーの違いだけで、ここまでそのカメラマンを知らなかった自分に驚いたのだ。その人だって、あの日同じ行動を取った勇者だったのに。
彼の名は、関根史郎。
自然と、子供たちをこよなく愛していたという。
今日の記事のタイトルは「英雄の命日」だったけど、替えておいた。